2020年7月11日土曜日

長久山 本行寺(月見寺)|江戸の景勝地「日くらしの里」の文化香るお寺

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本行寺山門

 日暮里駅から御殿坂を登ったところにあるお寺です。もちろん江戸切絵図にも記載がある古いお寺です。
 門前にある荒川区の史跡文化財の碑には以下のように由緒が書かれています。
 『本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。
 儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛永3年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。』


 また、荒川区のホームページには、少し別の記載もあります。
 『日蓮宗のお寺です。太田道灌の孫の太田資高が大永6年(1526)に江戸城内平河口に建立し、江戸時代に神田、谷中を経て、宝永6年(1709)に現在の地に移転しました。
 景勝の地であったことから、「月見寺」とも呼ばれており、花見寺(青雲寺)、雪見寺(浄光寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られています。
 20世日桓(号一瓢)が小林一茶と親交があり、境内には、一茶の句碑のほか種田山頭火の「ほっと月がある 東京に来てゐる」の句碑があります。
 また、幕末から明治時代に活躍した永井尚志や儒学者の市河寛斎・米庵親子の墓などもあります。』


 江戸の中心地から北上して、ほど近いところに広る丘、谷、川、田畑、その自然の中に広がる寺町。上の東都三十六景「日くらしの里」には、日暮里のそのような土地の面白さと賑わいが分かります。風光明媚なこの地は、一日中暮らしても飽きない里、ひぐらしの里から日暮里と呼ばれるようになった江戸時代からの観光地であり、文化人が集まっていたようです。



 緑が多く整備された参道を歩いていくと立派な本道があります。

本行寺 本堂

 境内には、文化、歴史を偲ばせる石碑がいくつかあります。


 てっぺんに猫が寝そべっている「供養碑」です。猫が寝そべっているので、猫の供養碑なのでしょうが、由緒等書いていませんので、いつ頃のものなのかもよく分かりません。猫の街、谷中ならではですが、谷中に猫がたくさんいたのは、もう昔の話になってしまいました。

種田山頭火の句碑

 明治時代の俳人、種田山頭火の「ほっと月がある 東京に来てゐる」の句碑。月見寺の本行寺とは縁が深いそうです。

小林一茶の句碑

 本行寺と縁のある俳人は、種田山頭火だけでなく、江戸時代に遡って小林一茶も縁があるようで、小林一茶の「陽炎や 道灌どのの 物見塚」の句碑もあります。これだけ俳人に愛され、俳句が詠まれているということは、日暮の里にある月見寺は、風光明媚なお寺だったのでしょう。



 本行寺の場所は、太田道灌とも縁があることから「道灌丘碑」があります。荒川区教育委員会の説明碑には、以下のような説明が書かれています。
 『長禄元年(1457)、太田道灌(資長)が江戸城築城の際、眺めの良いこの地に「物見塚」という斥候台を造ったという。「江戸名所図会」の「日暮里惣図」によると、本行寺の境内裏手に「ものミ塚」があり、塚の脇にこの石碑が描かれている。本行寺は道灌の末裔とされる掛川藩主 太田氏の菩提寺であり、寛延3年(1750)に住職の日忠や太田氏にゆかりのある古屋孝長、四宮成煥らが、道灌の業績を記した碑を建てた。撰文は、儒者の石島筑波。小林一茶もしばしば訪れ、「陽炎や 道灌どのの物見塚」と詠んでいる。物見塚は、明治時代の鉄道施設でなくなったが、碑は、山門を入った正面に移設されて現在に至る。』と記されています。


 下の江戸時代の地図と現在の地図を見比べて見ると、確かに本行寺の裏手は削られてしまって、JR山手線、京浜東北線が走っていることが分かります。物見塚のある月見寺、なんとも風流なお寺だったのでしょう。

江戸切り絵図

本行寺の地図、アクセス

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