寛永2年(1625)、慈眼大師天海大僧正により創建されました。言わずもがなですが、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の山に建立されました。
このような創建の仕方は、平安の桓武天皇の時代に比叡山延暦寺が創建された時の考え方に習って行われたそうです。比叡山も京都御所の鬼門に位置し、寺号は、時の元号の延暦から採られており、寛永寺も、同じ考え方で、創建されたのです。
そして言わずもがなですが、現在の上野公園の広大な敷地を境内としていた寛永寺は、明治維新の際の上野戦争で焼失してしまい、徳川の菩提寺でしたし、境内地は、明治政府に接収されてしまいました。
明治12年(1879)になり、ようやく寛永寺の復興が認められ、もともと根本中堂があった場所からは外れ、寛永寺の子院「大慈院」のあった場所に再建されました。下の江戸切絵図には、大慈院は記載されておらず、唯識院と記載されているあたりだと思われます。
寛永寺再建にあたっては、かつて天海大僧正が住職を務めた川越・喜多院の本地堂を移築し新たな根本中堂となりました。寛永15年(1638)建造のものといわれております。
現在の寛永寺境内
寛永寺境内には、寛永寺や子院、また、近隣の寺院の過去の遺構や、記念碑などが、取り留めもなく置いてあります。
東叡山中堂と刻まれた 石盥盤(手水鉢)。元禄11年と刻まれていますから、江戸時代の寛永寺の根本中堂あたりに置いてあったのでしょう。
伊勢長島藩主の増山正賢という人は、書画を好む文人大名であったそうです。特に、虫類の写生では有名であり、作画に使った虫類の霊を慰めるために、文政4年(1821)に建てられたのが「虫塚碑」です。
当初は、寛永寺の子院である勧善院に建てられましたが、勧善院が昭和初期に寛永寺に合併されたため、寛永寺の境内に移されたました。
碑の正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書き、裏面は、大窪詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が関わって作られている価値のある碑なのです。
上野戦争の際、幕府側の彰義隊に属していた阿部弘蔵が記した上野戦争の経緯を碑にした「上野戦争碑記」。明治7年(1874)には、この文章は出来上がっていたようですが、さすがに、政府の許可がおりず、明治44年(1911)にやっと許可がおり、建造にこぎつけたそうです。
明治政府からしてみれば、幕臣側にいた
阿部弘蔵が記した経緯の碑の建立など簡単に認められませんよね。
光琳派の創始者として有名な尾形光琳。彼の弟に尾形乾山という人がいますが、彼もまた、書画に優れていただけでなく、入谷に窯を開いて陶芸にも秀でていたそうです。乾山は下谷の善養寺に葬られましたが、年月が過ぎるにつれて、乾山の墓の存在が忘れ去られてしまいました。
光琳の画風を慕う酒井抱一によって、乾山の墓が探し当てられ、文政6年(1823)に、「乾山深省蹟」が建てられました。寛永寺にある
「乾山深省蹟」と「尾形乾山墓碑」は、昭和7年に建てられたレプリカで、本物は、善養寺に残されています。
東叡山を統括する学頭は、凌雲院の住職が努めましたが、慈海僧正は、第4代の学頭でありました。その慈海僧正の墓は、凌雲院にありましたが、昭和33年に東京文化会館建設のため、凌雲院が取り壊されたため、慈海僧正の墓は寛永寺に移されました。
現在、寛永寺の境内にある銅鐘は、4代将軍家綱公の霊廟「厳有院殿」に延宝9年(1681)に奉献された銅鐘が、明治以降、寛永寺に移されました。
根本中堂の鬼瓦と、旧本坊表門(黒門)の鬼瓦。巨大な鬼瓦です。根本中堂の鬼瓦は、葵の御門が威光を放っています。とにかくデカい、圧倒されます。
上の地蔵さまには、「八萬四千躰之内 五千七百番」と刻まれています。寛永寺の子院の浄明院に、八萬四千躰地蔵がありますが、それと関係あるのでしょうか。その内の5700番目が、寛永寺にあるのでしょうか。
寛永寺の霊園に残る徳川家の霊廟の遺構
寛永寺には、豪華な彩色に彩られた徳川家の霊廟が残されていましたが、東京大空襲で多くが焼失してしまっています。
寛永寺から、上野に向かうには、寛永寺の霊園そばを歩くことになりますが、焼失を免れた建造物が、重要文化財として、寛永寺の霊園そばに残されています。
五代将軍綱吉の霊廟、常憲院霊廟で空襲による焼失を免れた建造物、勅額門が残されています。今でも豪華であった極彩色の建物が残っています。常憲院とは、徳川綱吉の法名です。
常憲院霊廟から少し、上野に向かって歩くと、四代将軍・家綱の霊廟「厳有院霊廟」の勅額門があります。
常憲院霊廟と同じく、ほとんど空襲で焼失していますので、この豪華絢爛な勅額門しか見ることができません。
寛永寺の地図、アクセス
東京都台東区上野桜木1−14−11
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