戦国の武将、太田道灌が江戸築城の際に、京都の北野天満宮より菅原道真公の神霊を勧請したのが始まりです。文明年間(1469−1487)のことです。
当初は江戸城内にあったのですが、徳川秀忠の時代になり、江戸城内から江戸城外の櫻の馬場に移されました。櫻の馬場とは、現在の東京科学大学(旧東京医科歯科大学)の場所にあった幕府の馬場。
その後、徳川綱吉がその櫻の馬場の地に昌平坂学問所を設立したため、元禄4年(1691)に櫻木神社は、現在の地に移されることになりました。この地はには、もともと真光寺という寺院があったのですが、その真光寺の境内に櫻木神社が移されたのです。
文久2年(1862)版の江戸切り絵図には、北ノ天神、真光寺が同じ敷地に記載されています。
真光寺は東京大空襲で焼失したため、戦後、世田谷に移ることになりました。そのため、真光寺のあった場所は、現在、ほぼ宅地となっていますが、この櫻木神社と、本郷薬師、十一面観世音像などが残っていて、ここに真光寺という大きな寺院があったことを思い起こしてくれます。
春日通りに面していますが、木々が生い茂り、静寂で神聖な境内です。
櫻木神社の境内には見送稲荷神社という境内社があります。狭い境内の本殿の横をすり抜けて行きます。
櫻木神社の本殿の裏にある見送稲荷神社。
変わった名前の神社。変わった名前のお稲荷さん。なんなんだろうと思って調べると、本郷三丁目交差点のすぐ北側は、見送り坂と言われていたそうなんです。しかもそれは南側の坂。北側は見返り坂と言われていたそうです。
その見送り坂の近くのお稲荷さんということで見送稲荷と呼ばれてきたんでしょう。
それでは、なぜ本郷三丁目交差点あたりを見送り坂とか見返り坂とか呼ばれていたかというと、今の本郷通りを横切るように川が流れていたそうです。その川が戦国時代、太田道灌の領地の境目となっていました。
なので当時、罪人などの追放者は、その川から追放されていたので、南側は罪人を見送る側なので見送り坂と呼ばれ、北側は、罪人が親類縁者を見返す側なので見送り坂と呼ばれるようになったとのことです。
櫻木神社の地図、アクセス
東京都文京区本郷4−3−1
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