2019年10月22日火曜日

海照山 品川寺|街道を見守るお地蔵のあるお寺

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 「しながわでら」ではなくて、「ほんせんじ」と読みます。
 非常に歴史のあるお寺で、平安時代の大同年間(806ー810)に開創されたと伝えられています。弘法大師・空海が東日本を巡っていた際、この地の領主であった品河氏に「水月観音」を授けたことが始まりのようです。
 この水月観音は、品河氏に代々伝わっていましたが、応永2年(1395)に品河一族は滅びてしまい、それからは、観音堂に安置されることになり、人々から信仰を集めることになったそうです。それまでは、品河氏だけで信仰されていたのでしょうか?
 戦国の世になり、この辺りで勢力を持っていた太田道灌は、水月観音を信仰し、自身の「聖観音」も併せて観音堂に安置しました。そして長禄元年(1457)には、伽藍を建立し、「金華山 普門院 大円寺」としたそうで、この時、初めて寺号がついたようです。
 江戸時代に入り、寛文元年(1652)に、一大伽藍を建立し、寺号を「金華山 普門院 品川寺」と改められました。その後、時期は不明ですが、山号が「海照山」に改められました。


 品川寺といえば、山門前にある大きなお地蔵さん(地蔵菩薩坐像)。江戸六地蔵と呼ばれ、江戸の入り口、街道の出発点に六体作られた地蔵像のうちの一つです。こちらは東海道ですが、甲州街道、水戸街道、奥州街道、中山道、千葉街道の起点にも、それぞれ地蔵像が作られました。
 宝永5年(1708)に神田鍋町の鋳物師、太田駿河守正義によって鋳造された地蔵像は、江戸名所図会の品川寺の項にも描かれています。



 山門のそばにある宝篋印塔。亀の上に乗っているのが愛嬌あります。
 緑に囲まれた参道、山門、木造瓦屋根の山門、大きな地蔵像など、とても整備された美しい入り口で、本堂も立派な和様の本堂を期待して、境内にはいると・・・


 う〜ん、オリエンタル・・・しかも、鉄筋コンクリート造り。
 旧東海道沿いは、戦災を免れ、都内でも珍しく、古い寺社建築の残る場所でありますが、どうしたことか、品川寺は手金コンクリートになっておりました。江戸名所図会に描かれた本堂は、大きく立派な本堂ですが、変わり果てておりました。


 どうやら、江戸末期、品川寺は荒廃しきっていたようで、大正期に入り、レンガ造りの観音堂が建てられたようです。現在は、鉄筋コンクリートですから、その後、いつの時か鉄筋コンクリートに建て替えられたのでしょう。
 境内の真ん中には、何もない空間がありますが、この空間では、毎年9月に火渡り荒行が行われています。



 この梵鐘は、明暦3年(1657)に京都三条の鋳物師、大西五郎左衛門により鋳造されたものです。徳川三代将軍(家康、秀忠、家光)の供養のために作られたそうです。慶応3年(1867)パリ万国博覧会に出品され、その後行方不明になっていた過去を持つ梵鐘です。その後、スイスのジュネーブで発見され、昭和5年に返還されたそうです。このため、洋行帰りの鐘とも呼ばれています。


 大梵鐘のある鐘楼の周りには、七福神の石像がぐるっと巡らされています。










 境内には、樹齢約600年の銀杏の巨木があります。

品川寺の地図、アクセス

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