鎌倉時代の建長3年(1251)に、同じ品川にある海晏寺の境内に僧不山によって開基されました。当初は、庵瑞林といわれていました。江戸の寛文年間に入って、海雲寺と号するようになりました。
木造の立派な山門です。
山門をくぐってある石畳通りに進むと、平蔵地蔵があります。
この平蔵地蔵とは、江戸の末期に、鈴ヶ森刑場の番人をしていた三人の乞食のうちの一人を供養したお地蔵さんです。
この平蔵という人は、多額の金を拾い、持ち主を見つけ返しました。その際、持ち主からのお礼も断ったそうです。これを聞いた二人の乞食は、拾った金を山分けすべきだったと、平蔵を追い出し凍死させてしまいました。それを知った落とし主が、平蔵を供養するために地蔵尊を建てたそうです。
明治に入り、京浜電車が開通した際、この地蔵尊が路線にかかったため、当時の海雲寺の住職が境内に移したのが、この平蔵地蔵です。
そのまま石畳を進むと、千躰荒神堂があります。こちらは、海雲寺の本堂ではなくて、荒神さまをお祀りする御堂になります。
荒神さまとは、台所で大事な火と水をお守りする神ですので、台所の神様として信仰されています。もともと、島原の乱ののちに高輪の鍋島家に祀られていた荒神さまを、明和7年(1770)に海雲寺に勧請したそうです。
3月と11月の27、28日には、大祭が開かれ、露店もたくさん開かれ、賑わうようです。
江戸名所図会に描かれている「千躰荒神堂」です。現在の御堂よりは、少々小振りだったようですね。現在の荒神堂は、関東大震災以降に建て替えられたお堂のようです。建て替えで巨大化したのでしょうか。
千躰荒神堂の隣にあるのが、海雲寺の本堂になります。千躰荒神堂よりも、小ぶりで、ひっそりとしています。
「皇紀2600年記念 永代胡麻料 日本橋通二丁目 池田屋」という石碑。皇紀2600年とは、神武天皇即位から2600年とされた1940年に、記念として様々な行事が行われたようですが、その際のものでしょう。永代胡麻料とは、いくら払ったのでしょうか。永代ですから、相当な額なのでしょうか。それを払った日本橋の池田屋さんとは、何者なのでしょうか。
鐘楼は、大正初期に建立されたようです。荒神堂は、関東大震災で再建されたようですが、鐘楼は、大正初期ですので、関東大震災では損傷しなかったということになるのでしょうか。
鐘楼の彫刻は素晴らしいです。
鐘楼の脇には、「烏枢沙摩明王」のお堂が。烏枢沙摩明王は、トイレの神様です。トイレの神様といえば、植村花菜さんの歌が有名ですが、ここで歌われているトイレの神様は女神様なので、烏枢沙摩明王とは違うのでしょうか。
この力石は、若者たちの力比べに大正中期まで使われていたそうです。門前は、今とは全く違い、多くの漁師が住む町でしたから、漁師たちが門と本堂の間を何回持って歩けるか競っていたそうです。
海雲寺の地図、アクセス
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