2020年1月26日日曜日

宝珠山 東福院|豆腐地蔵という昔話に出てきそうなお地蔵さんのあるお寺

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 天正3年(1575)に創建された寺院です。四谷寺町の例に漏れず、このお寺も、元は、麹町にありましたが、江戸城外濠拡張のため、寛永11年(1634)、当地に移転してきました。
 東福院の前の坂道は、東福院坂と名付けられています。
 写真で見てお分かりの通り、鉄の門扉に、コンクリの参道、そして、鉄筋コンクリートであろう本堂で、風情も何もなく、私も、正面から写真を撮っただけで立ち去りました。
 が、この境内には、豆腐地蔵というお地蔵さんがあります。この話は、なかなかに、この界隈の歴史風俗を表しているように感じます。

四谷絵図
 豆腐地蔵の話とは・・・
 東福院の坂下に、憎まれ者の親爺の豆腐屋があったそうです。この憎まれ者の親爺、何やってたかというと、高利貸しや売女を囲っていたそう。そうですよ、四谷絵図を見て下さい。東福院坂下は、鮫ヶ橋谷丁と書かれていますが、ここは、江戸から明治、大正、昭和初期にかけて貧民窟(スラム街)が形成されていた地域です。江戸時代の鮫ヶ橋には、お金のない商人が集まり、岡場所(風俗街)も形成されていました。
 そのような鮫ヶ橋の住人に対して、この豆腐屋の親爺が高利貸ししたり、売女を囲っていたと考えると、この昔話も、まんざら嘘ではないと思えます。
 で、この豆腐屋の親爺の心を直すため、東福院のお地蔵さんが、お坊さんに化けて豆腐を買いに行きました。このお坊さんが払ったお金がいつも木の葉に変わってしまうため、狐や狸の仕業だと思い、お坊さんの手首を切り落としてしまったそうです。
 しかし、そのあと、血の滴る跡をつけて行くと、東福院のお地蔵さんまで続いていたそうです。豆腐屋の親爺は、お地蔵さんの戒めだと気付き、その後は、改心して、善人に立ち直ったそうです。
 この豆腐地蔵は、東福院の境内に今もあり、左手の手首が欠けているそうです。また、切り落とされた手首も、東福院に残されていて、腫れ物が治ると信仰を集めていたそうですが、戦災で行方不明になってしまったそうです。
 売女を囲んだ高利貸しの豆腐屋。貧民が住み、岡場所があった鮫ヶ橋。金の亡者と貧民。この土地ならではの昔話だなと思いました。

東福院の地図、アクセス

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