2020年4月11日土曜日

東光山 要津寺|芭蕉愛が止まらない。芭蕉をしのぶ石碑群のあるお寺

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 慶安年間(1648−1651)に、もともと、駒込に創建されました。その当時は、東光山・乾徳寺と号していたそうです。
 創建した牧野成貞は、旗本の家でしたが、成貞の代で、将軍の側用人になり、関宿藩主となりました。元禄4年(1691)に、現在の地を下屋敷として拝領した際、お寺も、こちらに移したそうです。移した時は、成貞寺としていたようですが、その後、成貞の父の戒名から要津寺と改めたようです。


 現在は、境内の南側が山門、入り口になっていますが、江戸切り絵図を見ますと、東側、六間堀の脇が入り口だったようです。門前丁も記されています。




 鉄筋コンクリート造の本堂は、味気ないですが、境内の一角には、松尾芭蕉に関係する石碑がたくさん残されています。
 芭蕉三哲の一人、服部嵐雪、庵号を雪中庵と号しましたが、その三世を継いだ大島蓼太が、要津寺の門前に雪中庵を再興しました。そのため、松尾芭蕉に関係する石碑がたくさんあるのです。
 要津寺から、500m南には、松尾芭蕉が住んでいた深川芭蕉庵があります。このあたりは、松尾芭蕉にゆかりのある土地なのですね。


 宝暦13年(1763)に、大島蓼太が建立した「芭蕉翁俤塚(おもかげづか)」の石碑。松尾芭蕉、七十回忌を記念して建立されたものです。


 安永2年(1773)建立、「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑。松尾芭蕉の八十回忌を記念して建立されました。


 服部嵐雪と、二世桜井吏登の供養碑。大島蓼太によって建立されました。



 天明2年(1782)建立、「碑(いしぶみ)に花百とせの蔦植む 雪中庵蓼太」との歌碑。裏には、「芭蕉翁百回忌発句塚碑」と刻まれています。当時、雪中庵蓼太(大島蓼太)は、75歳。松尾芭蕉の百回忌まで、11年ありましたが、百回忌までは生きていられないと、事前に百回忌を営んだそうです。芭蕉愛が凄まじいですね。

要津寺の地図、アクセス


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