2020年4月12日日曜日

一の橋通り|江戸の庶民文化が埋もれる通り

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 一の橋通りとは、隅田川から東に流れる運河、竪川を渡る橋の一つである「一の橋」を南北に通る通りです。
 江戸切り絵図の本所絵図と本所深川絵図には、「一ツ目之橋」として記されています。一ツ目之橋の南北に通りが描かれていますから、現在の一の橋通りとほぼ同じ通りだと思われます。
 江戸切り絵図を参考にすると、竪川の北側は、回向院を中心とした町屋が立ち並ぶ、庶民の町。竪川を渡ると、町屋と武家屋敷が入り混じった町ということが分かります。

     

 回向院の項でも述べましたが、江戸時代は、回向院では相撲興行が行われる等、とても庶民で賑わっていたと思われます。回向院の東側に記されている「元町」には、今も残る軍鶏鍋のお店「ぼうず志ゃも」や、昭和5年に廃業してしまった「与兵衛鮨」がありました。


 ぼうず志ゃもの創業は、天和年間(1681ー1684)です。300年以上も昔からある老舗です。
 池波正太郎の「鬼平犯科帳」にたびたび登場する、軍鶏鍋のお店「五鉄」のモデルになっているのは有名な話です。


 与兵衛鮨は、文政年間(1818ー1831)創業ですが、残念ながら、昭和5年に廃業となっています。江戸握り鮨発祥の説明板のようなものしかありません。
 庶民の集まる賑わいのある町としての役割が無くなったためなのか、与兵衛鮨は廃業になってしまっていますし、その他、ぼうず志ゃも意外には、老舗と言われるようなお店どころか、料理屋が見当たりません。
 江戸時代は、かなり賑わったのでしょうが、今は、閑静な住宅街となっております。説明板などを見ながら、江戸の庶民文化を想像しながら歩くしかありません。


 誰の邸宅か分かりませんが、ツタが生茂り、風格のある住居があったり、店じまいしたかのような飲食店の跡があったり。江戸の繁華街は、今では、すっかり繁華していません。



 一の橋の頭上には、首都高7号小松川線が、ダイナミックにうねりながら、竪川上を這うように、架けられており、江戸情緒も、風情も全くありません。
 ですが、下から見上げる首都高は、ダイナミックで迫力があります。




 一の橋のたもとに、老舗の和菓子屋さんがありました。「越後屋若狭」。大名家にも出入りしていた和菓子屋さんだそうです。明治に入ってからは、政治家や文豪にも好まれたそうです。


江戸名所図会「本所一目」

 江戸名所図会の「本所一目」には、一の橋の南側が大きく描かれています。この名所図会でいうと、辯財天社(江島杉山神社)の門前の町屋の角あたりに、「越後屋若狭」があったと思われます。
 辯財天社の奥には、深川八幡御旅所(名所図会では「八まん」)が描かれています。富岡八幡宮の神輿などが置かれていたところだと思います。今は、八幡宮に関係するものは、何もなく、低層のビルがあるのみです。


 明治から昭和にかけての劇作家、長谷川時雨の「花火と大川端」には、このあたりに岡場所があったと記されています。「本所一つ目お旅の辯天にも岡場所の藝妓たちが居た」と書かれています。
 江島杉山神社の弁天様、すぐそばに、深川八幡御旅所と、人がたくさん集まったのでしょう。そのようなところに、江戸時代は岡場所が形成されていました。
 今は、閑散とした通りですが、やはり、江戸時代は、賑やかな通りだったのでしょう。
 全く、面影がありませんから、やはり想像して歩くしかありません。


 こちらは、江戸文化とは違って、70年代フォーク文化の面影が。


 「TOKYO FOLKLORE CENTER」です。70年大のフォークブームの頃には、東京でも有名なライブハウスだったようです。
 江戸文化から、フォーク文化まで、一の橋通り、懐深いです。




 一の橋通りは、本当に、飲食店がありません。まさか、先ほどの「ぼうず志ゃも」で気軽に食事なんてできませんし。気軽に食べるとすれば、「一之橋」さんくらいでしょうか。ランチと、夜は、居酒屋だと思います。

 あと、一の橋通りで、不思議なお店発見。


 豆腐店の看板を掲げているのですが、ショーウインドウには、プラモデル、おもちゃが飾ってあります。
 もともと豆腐屋さんだったのが、個人経営の豆腐屋は経営が苦しいし、そんな中、プラモ好きの放蕩息子が、豆腐屋を閉めて、模型屋を始めたのかと想像しました。
 が、逆でした。もともと模型屋さんで、看板を豆腐屋にしたのだそうです。(逆ではないか。逆だと、看板だけでなく、業態を豆腐屋に転換したことになりますね。ま、そんなことは、どうでもいいですが。)なんでも、マンガ「頭文字D」に出てくる豆腐屋の看板をそのまんま再現しているようです。


江戸文化、フォーク文化、オタク文化、、、、ますます、一の橋通り、懐が深いですわ。


 その後、南下を続けると、看板建築など、レトロ物件が楽しめます。


 レトロな理髪店に、黄色い三色ポール。なんで黄色なのでしょう。


 一の橋通りの南部には、少し飲食店があります。上の写真は、ワインバルの「ことり」と、隣には、下町によくある「三好弥」というとんかつ屋さん。下町情緒あふれる通りに、よくワインバルとかあり、そのギャップがお洒落さを感じさせますが、この一の橋通りは、特に下町情緒あふれる通りでもありませんし、特にギャップの面白さは感じません。


 看板建築、三棟。看板建築がありますから、以前は、お店が立ち並んでいたのでしょうか。


 シャッターに「野州屋商店」と書かれたレトロ物件。表通りの背後も、とても貫禄ある建物です。問屋さんか何かのようです。廃業しているのでしょうか。

 
 築地を中心に展開しているパン屋さん「オリミネベーカーズ」。


 下町っぽさを求めて歩いていた私、この通りで一番感動したのは、「中国料理 美登飯店」!正真正銘の町中華です。1973年創業だそうです。アド街や、モヤさまなんかでも紹介されているようです。この前の一の橋でお昼食べていたので、入りませんでしたが。
 このお店には、芸能人がたくさん訪れているようです。なぜかというと、この近くにベニサンピットという劇場があったそうです。この辺りは、演劇の街でもあったのですね。
 演劇にしろ、先ほどのフォークにしろ、東京で学生の多く住んだ中央線沿線で、そのような文化が集積しましたが、東東京の墨田区、江東区に、そのような文化があったとは!


 そして、「そば処 天狗」。昭和6年創業だそうです。一の橋通り南部は、下町レトロ食文化が息づいております。


 一の橋通りの南端には、「彦九郎」という和菓子屋さん。これは、江戸から続く老舗の和菓子屋さんかと思いきや、平成16年オープンです。人形町の甘酒横丁に本店があります。





の橋通りの地図、アクセス

東京都墨田区両国1丁目、2丁目、千歳1丁目、江東区新大橋1丁目、2丁目


     


の橋通り 情報交換


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