2020年4月5日日曜日

江島杉山神社|江戸の鍼灸師、杉山和一ゆかりの神社

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 両国の一の橋通り沿いにある弁天様です。両国駅から一の橋通りを南下し、一之橋を渡ると、ビルとビルの合間に鳥居があり、そこから、東にまっすぐ参道があります。


 この立地は、江戸切り絵図と全く同じです。一ツ目之橋(現、一之橋)を渡るとすぐのところに、「弁才天」の記載があります。参道は、灰色のブロック(=町屋)に囲まれ、その奥に、弁才天があります。江戸時代は、両側のビルは、町屋だったようです。


 この江島杉山神社は、それほど古い神社ではなく、創建は、江戸時代の元禄7年(1693)です。
 この江島杉山神社、両国という下町といえど、都心にありながら、洞穴があるなど、一風変わった神社で、両国の散策には、ぜひ、お立ち寄り下さい。




 江島、弁財天というと、湘南江ノ島の弁財天を思い浮かべますが、その通りで、湘南江ノ島の江島神社の弁財天の分霊をお祀りしています。
 なぜ、江ノ島の弁財天が、東京の下町にお祀りされているのでしょうか。この疑問をひもとくためには、江戸時代の鍼灸師、杉山和一の生涯を知る必要があります。


 杉山和一は、現在の三重県津市の津藩の藩士出身でありますが、幼少の折に、病のため失明したため、江戸の山瀬琢一のもとで、鍼術を学びました。しかし、不器用で、物忘れが激しく、破門されてしまいました。


 破門された杉山和一は、何かして生計を立てなければならいと、江ノ島弁天の岩屋に籠り、断食修行をはじめました。断食を終えて、歩きはじめた杉山和一は、大きな石に躓いてしまいました。その時、和一の足を椎の葉に包まれた松の葉が和一の葉を刺していました。
 この椎の葉に包まれた松の葉から、和一は、管鍼術(管に針を入れてツボをつく)を思いついたのです。


 それから、江戸で開業した杉山和一は、大繁盛し、時の将軍、徳川綱吉に「扶持検校」として召抱えられたそうです。徳川綱吉に何か欲しいものはないかと聞かれ、杉山和一は、「ただ一つ目が欲しゅうございます」と答えたこそうです。
 盲人ですから、目が欲しいと答えたのですが、これに対して、綱吉は、頓知をきかせ、本所一ツ目という場所を、総録屋敷として、杉山和一に与えたのです。総録屋敷とは、盲目の鍼灸師や、琵琶法師を統括する屋敷です。




 そして、年老いても、江ノ島弁天へのお参りを続ける和一のために、江ノ島弁財天を、この本所の地に勧請したのです。


 現在も、境内の東側、弁天池の向こうに弁財天があります。






 そして、弁才天の北側には、何やら、洞穴があります。


 洞穴に通ずる小道は、「いわやみち」という小道のようで、碑があります。碑には寛政8年と記されており、歴史のある碑のようです。



 この洞穴は、杉山和一が、断食修行した江ノ島の岩屋を模した洞穴なのです。寛政5年(1793)に造られたものです。


 荘厳な岩屋の奥正面には、杉山和一像があります。


 右奥には、宗像三女神像があります。


 この石像に、三女神が彫られているのですが、右から田紀理比売命、市杵島比売命、多紀津比売命です。三女神の前には、白蛇(弁才天の使い)で敷き詰められています。


 左奥は、宇賀神(人頭蛇尾)像。


 確かに、蛇の頭が人ですね。こちらも、白蛇に敷き詰められています。



 江戸名所図会には、本所一目のページに、大きく辯財天社として描かれています。手前に描かれているのが、大川(今の隅田川)、左手にあるのが、竪川です。立川にかかっている橋が、一之橋です。現在と立地はほぼ同じようです。
 境内の弁天池は、境内を横切って描かれていますので、現在の弁天池より大きかったようです。また、奥には、「いわや」も描かれています。

江島杉山神社の地図、アクセス

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