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2025年12月21日日曜日

熊野神社(北区志茂)|鎌倉時代創建、北区志茂の歴史とともに

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 志茂旧道沿いにある熊野神社。同じく志茂旧道沿いにある西蓮寺を創建した法印淳慶が、正和元年(1312)に熊野三社権現を勧請、熊野神社を創建し下村(現在の志茂)の鎮守としたということです。西蓮寺の鐘銘に熊野神社を勧請したことが彫られているようです。
 「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨従紀州奉勧請熊野三社権現為当郷鎮守」
 以来、700年以上、この地にあり続けているのですね。


 これは何でしょう。古い鳥居?天下泰平って書いてありますね。


 温暖な地で育つ梛の木が大きく育っています。


 参道には、梛の木の他にもケヤキなど大木に覆われています。



 社殿は正和43年(1968)に建て替えられたもの。社殿の右に、阿夫利神社、浅間神社、十六天神社、十二社神社の四社が祀られている末社がありますが、これが熊野神社の旧社殿です。


 旧社殿は、文政5年(1822)に造営されました。境内の説明板によると年輪の詰んだ良質の檜と欅が用いられ、蟇股や木鼻など、部材の各所の彫刻に江戸時代後期の様式の特徴が見られるということで、歴史ある社殿なのです。


 上の写真は、説明板に掲示されている旧社殿ですが、今の旧社殿とかなり違うような気がするのですが、何なんでしょう。
 この社殿に合祀されている阿夫利神社は、もともと橋戸の子育地蔵の裏手に祀られていたようなのですが、昭和に入って熊野神社境内に移されたようだと説明板に書かれています。
 かつては毎年5月7日には、若い衆が数100本もの御幣を挿した竹柱を担いで、「阿夫利権現六根清浄」と唱えながら荒川で水垢離して村内を練り歩いたそうです。


 社殿の左には、梛野原稲荷神社という末社もあります。
 梛野原というのは、荒川の対岸にあった下村(現在の志茂)の飛び地で、水田や畑があったそうです。治水のために荒川放水路の開削が計画されたため、ルート上である梛野原にあった稲荷神社と水神宮が熊野神社に遷されたということです。

野神社(北区志茂)の地図、アクセス

東京都北区志茂4−19−1

野神社(北区志茂) 情報交換

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2025年9月13日土曜日

火伏稲荷大明神(本郷・菊坂)|本郷菊坂の小さな祠

 ホーム東京の神社>火伏稲荷大明神(本郷・菊坂)



 本郷の菊坂にある小さな祠。小さい祠ですから、いつ頃から祀られているのかもよく分かりません。
 この辺りには、過去に本妙寺というお寺がありましたが、江戸の大火のひとつ明暦の大火の出火元とされています。そんな事情もあっての火伏稲荷なんでしょうか。
 近くに住んでいた樋口一葉が、生活苦から利用していた伊勢屋質店の近くにあります。

伏稲荷大明神地図、アクセス

東京都文京区本郷

伏稲荷大明神 情報交換

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2025年8月12日火曜日

原稲荷神社|徳川家康と一緒にやってきた三河の人たちに関係ある?

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 境内にある案内によると、創建年代は不詳だが、天正18年(1590)に徳川家康の江戸に入府にともなって、三河国の百姓が町屋に移住してきた時にさかのぼると伝わっているそうです。
 ほぉ〜、町屋には、その昔、三河国から移り住んできた人たちがいたんだ。ということは町屋の地元の人たちの中には、祖先をたどると三河出身という人もいるっていうことなんですかね。


 一方で、荒川区の文化財のサイトによると、往昔より鎮座し、建武2年(1335)の棟札から、それ以前のご創建であることが推測できますが・・・と書かれています。諸説あるようですね。

稲荷神社の地図、アクセス

東京都荒川区町屋2−8−7

稲荷神社 情報交換

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2025年8月2日土曜日

武蔵野八幡宮|坂上田村麻呂が祀った武運の神様

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 吉祥寺といえば、住みたい街でも常に上位に入る人気の街。駅前には、商店街、パルコ、映画館、おしゃれなカフェ、レトロな横丁などがあり、さまざまな文化がミックスする街。
 JR吉祥寺駅から文化のるつぼな商店街の喧騒を北へ抜けると、緑豊かな武蔵野八幡宮がある。
 歴史はとても古く、奈良時代の終盤の延暦8年(789)に創建されている。創建したのは歴史の教科書にも出てくる平安時代の征夷大将軍で有名な坂上田村麻呂で、創建当初は、水道橋駅の近くだったとされている。
 坂上田村麻呂が、古くから武運の神として崇敬され、全国の八幡宮の総本社とされる宇佐神宮の分霊を祀ったとされている。ちなみに坂上田村麻呂は、ここの他にも、征夷の際に今の岩手県奥州市にも宇佐神宮の分霊を祀り、鎮守府八幡宮が創建されている。
 奈良時代から平安の貴族社会に移る頃、大和朝廷が東北、蝦夷の支配を強めようとした時代に、この武蔵野の地に創建された。鎮守府八幡宮の方は、征夷の時に創建されていて坂上田村麻呂の足取りも分かりやすいが、ここ武蔵野八幡宮に関してはよく分からない。Wikipediaの年表によると創建の前年、延暦7年に宮中警護の近衛少将と越後介を兼任するようになっている。
 そんな悠久の歴史を有する武蔵野八幡宮。江戸時代に入り、明暦3年(1657)の明暦の大火で水道橋付近にあった諏訪山吉祥と門前町が焼失したため、その周辺住民がこの地に移り住み吉祥寺村が開村。武蔵野八幡宮も、その住民たちと一緒に吉祥寺に移ってきた。ただ、村名にもなっている吉祥寺というお寺自体は、駒込に移ったため、吉祥寺に吉祥寺というお寺は無い。


 境内には、江戸時代に設置された井の頭弁財天への道標「神田御上水 井之頭辨財天 道標」が残されている。その名の通り、井之頭弁財天への道標として設置されたものだが、設置当初は、八幡宮外の対角にあり、八幡宮内にあったわけではない。大正時代に入り、道路拡幅のため、この道標は近所を転々とすることになり、八幡宮内におさまったのは、平成20年(2008)のことだそうだ。




 境内の狛犬は、明治12年(1879)に奉納されたもの。



 ケヤキやクスノキなどの緑豊かな巨木に囲まれて本殿がある。吉祥寺から駅チカとは、とても思えない。かつての武蔵野の雑木林が残っているのかと想像してしまうが、おそらく神域を形成するために植えられた木々なんだろうな。
 御祭神は、八幡大神こと、誉田別尊こと、応神天皇。応神天皇の母、大帯姫命こと、神功皇后など。


 境内には、出雲神社、三島神社、厳島神社、稲荷神社、疱瘡神社、大鳥神社の8社が境内社として祀られている。
 大鳥神社が祀られているので、毎年11月には大酉祭と呼ばれる酉の市が行われている。



蔵野八幡宮地図、アクセス

東京都武蔵野市吉祥寺東町1−1−23

蔵野八幡宮 情報交換

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2025年1月11日土曜日

吉原弁財天本宮|古墳時代〜江戸時代から、現代へ、吉原の歴史がわかる

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 境内にある説明によると、江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池があったそうだ。そんなこの地に日本橋にあった吉原遊郭(元吉原)が移され、新吉原と呼ばれるようになった。
 その遊郭造成の際にこの地にあった池の一部が残り、池畔に弁天祠が祀られるようになり吉原遊郭の楼主たちから信仰を集めたようだ。池は、新吉原の花園池とか弁天池などと呼ばれていた。
 近くにある吉原神社の飛び地境内という位置付けのようで、吉原弁財天本宮は吉原神社の末社にあたるようだ。
 境内を歩いていると、この辺りの歴史が垣間見えて面白い。


 緑豊かな境内には、石碑や石仏があちらこちらにある。


 「蛇塚」という石碑がある。
 享保17年(1732)に刊行された「江戸砂子」に、蛇塚の記載があり、その当時は蛇が多かったという気探されている。考古学者の鳥居龍蔵氏は、その塚は古墳だったと指摘している。
 この蛇塚の碑が、江戸砂子のいう蛇塚なのかどうかよく分かりませんが。古墳があったんですかね。鳥居龍蔵氏によれば、浅草寺の境内にも古墳が多くあったようだ。江戸時代には、浅草は郊外だったけど、古墳が多くあったということは、古墳時代まで遡ると大きな集落があったということなんだろうな。





 大正12年(1923)の関東大震災で、吉原遊郭は大火災に見舞われたのだが、火災から、熱風から逃げようとした遊女や、その他の人たちがここにあった弁天池に飛び込み、500人以上が亡くなった。
 弁天池での犠牲者の供養のために大正15年(1926)に観音像が建立された。


 弁天池は、昭和34年(1959)に埋められてしまい、今は、申し訳程度の池があるだけになっている。



 社殿の壁面には、カラフルでアーティスティックな弁天様が描かれている。東京芸大の学生さんが描いたようだ。




 社殿の前に「新吉原保女子健組合」と刻まれた祠があった。新吉原女子保健組合とは、吉原で働く従業婦の組合のようだ。戦後に新吉原女子睦会として発足したようだ。今もあるのだろうか。


 「大華」、「角海老」は、吉原遊郭にかつてあった大店。


 真ん中にある石碑は、昭和35年(1960)に建立された「花吉原名残碑」。その名の通り、この地に吉原遊郭があったという名残を記したもの。碑文は共立女子大学教授で俳人だった山路閑古氏によるもの。
 碑文の内容は、「日本橋にあった吉原(元吉原)が、この地(新吉原)に移ってきて、吉原の店は美しい遊女を囲うことで、客を取り込むことを競い、とても賑やかで繁栄したと。そして幾たびの火災、そして震災、戦災を受けたにもかかわらず再興してきたが、昭和33年の売春防止法施行に対しては、一夜にして消滅してしまった。」というような、吉原のような繁華街を潰してしまった売春防止法に対する恨み言のような内容が刻まれている。
 遊郭という風情や、文化は分かるのだけれど、女子大の教授がこのような碑文を書いたなんて、今の時代だとどうなんだろうと感じたりするのだけれど、かといって遊郭に風情や文化を感じないわけでもない。こういうのを見るとなんだか複雑な気分になるものだな。



原弁財天本宮地図、アクセス

東京都台東区千束3−20−2

原弁財天本宮 情報交換

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2024年9月23日月曜日

西新井浅間神社|西新井の住宅街に残る西新井富士講中の痕跡

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 足立区西新井の住宅街、空き地かと思いきや鳥居があり、かろうじて神社と分かる。一方は隣の中古車屋の鉄塀が迫り、社殿後方には「梅元家政婦紹介所」の看板を戴く、とても素っ気のない神社。
 浅間神社ということなので、富士山と関係があるのだろう。調べてみると、創建されたのは江戸時代。寛永15年(1638)ということで、それほど古い神社ではないようだ。そして創建に関わったのは地域の富士講中。江戸時代の富士山信仰ブームにのり創建されたのだろう。



 不動明王像や、富士登山を記念した板碑などが雑然と置かれている。明治以降、富士登山は単なるレジャー登山となり、富士山信仰、富士講というものは衰退していった。そんな歴史も影響しているのだろうか。


 この浅間神社の社殿が置かれているところは、少しこんもり盛り上がっていて、実は、浅間神社塚遺跡という名で遺跡として登録されている。遺跡のデータベースで調べてみると中世か近世の塚?とだけ書かれている。
 中世から近世というと、平安末期から明治維新までとかなり幅広い想定年代だが、もしかしたら、浅間神社が創建される前から司祭的な何かしらかがあったところなのだろうか。


西新井浅間神社地図、アクセス

東京都足立区西新井6−3−16

西新井浅間神社 情報交換

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2024年8月31日土曜日

火防稲荷神社|武蔵小山商店街の路地裏にあるお稲荷さん

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 武蔵小山の巨大アーケード商店街、武蔵小山商店街パルム。そのパルムの西のはずれ、アーケードがきれるあたりの路地にあるお稲荷さん。住宅街にポツンとあり、小さいながら4つ連なる朱色の鳥居が目をひきます。


 創建年代は、調べてみましたが、分からないですね。
 地域で発行されいている新聞「まちかど」の第216号には、大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲でも、火防稲荷神社の一帯は火災から免れたと書かれているので、遅くとも大正の頃、関東大震災の頃には火防稲荷神社は存在していたということなのでしょう。



防稲荷神社地図、アクセス

東京都品川区小山4−4−15

防稲荷神社 情報交換

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