日本橋にあった元吉原(江戸に点在していた遊女屋を集めた幕府公認の遊廓)。日本橋の発展とともに、幕府の中心地から遠ざけるために、当時の郊外であった浅草に移転させられることになりました。移転した吉原遊廓が便宜上、新吉原。
元吉原の地には、もともと九郎助稲荷社というお稲荷さんがありました。このお稲荷さんは、和銅4年(711)というとんでもなく古い創建のお稲荷さんであります。言い伝えによると、その和銅の頃、その元吉原の地で、千葉九郎助という人が白狐黒狐が天下るのを見たので、お稲荷さんを勧請したのだそうです。1300年以上前の話しで、千葉九郎助という人が本当にいたのかどうかも定かではありませんが、それに近い人がいて、何かがあってお稲荷さんを勧請したことは確かなのでしょうか。白狐黒狐というのも、妖狐と言われる妖怪というか神聖な狐のことですから、もう神話の域を脱しない話しではあります。
吉原が、浅草に移った時に、九郎助稲荷社も一緒に移ったそうです。そして、そのほか、新吉原には、玄徳稲荷社(よしとくいなりしゃ)、榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社が祀られていたそうです。
上は、「新吉原之図」ですが、それぞれのお稲荷さんの配置が分かります。
青が「玄徳稲荷」。この図では、「吉徳稲荷」と書いているようです。読みは同じですね。緑が「榎本稲荷」。赤が「開運稲荷」。紫が「九郎助稲荷」。水色が「明石稲荷」。このように、吉原の四隅と、入り口をお稲荷さんで囲んで守っているような配置になっていたようです。
この五つのお稲荷さんは、明治5年(1872)に合祀されることになり、おそらく、茶色のあたりに吉原神社として新設されたのだと思われます。今まであったお稲荷さんのどこかの場所ではなく、なぜこの場所なのか?不思議ですね。ちなみに、この茶色の場所には「東叡山順」と、「浅草寺順」と書いてあるような感じがします。専門家ではない私は、古い書体の字は、読解がうまくできません・・・。私の読みが正しければ、東叡山とは寛永寺のことであり、浅草寺は浅草寺なので・・・何なんでしょう?何か意味があるのでしょうか?分かりません。詳しい方がいらしゃったらお教え頂きたいものです。
吉原神社境内散策
狭い境内ながら、見所はあります。
鳥居前の樹は、桜の木のようです。説明板によれば、吉徳稲荷神社(玄徳稲荷でしょう。ここにこう書いているということは、玄徳稲荷は、吉徳稲荷と称していたのでしょう。)の御神木として崇信されていた桜の木が明治44年に焼失してしまっていたようですが、平成の世になって、改めて植えられたようです。
吉徳稲荷(玄徳稲荷)は、先に掲げました「新吉原之図」には、吉原遊廓の入り口にあります。そのお稲荷さんにある桜は、「逢初桜」と呼ばれたそうですが、遊客の出会いを叶えると言われていたようです。遊客の出会いって、お金を払えば、いくらでも出会えたんじゃないの?という考えは、下世話な考えなのでしょう。
この石碑、なんて書いてあるか全く分からず、ただの石が置いてあるのかと思いますが、背後の板に「この里に おぼろふたたび 濃きならむ」と書いてあります。石碑をよく見ると、いくつかの文字は見て取れますが、全体像はやはり分かりません。古い石碑なので薄れてしまい、見えないのかと思いきや、実は、この石碑は、白粉彫という技法で掘られているようで、水をかけると、文字が白く浮き上がるそうなんです。粋な石碑ですな。
調べてみると、「この句は、浅草出身の久保田万太郎という大正から昭和にかけて活躍した文人の句碑だそうです。そして、この句碑は、もともと吉原にあった料亭「松葉屋」の庭にあったようです。久保田万太郎は、料亭松葉屋に通っていたのでしょうか。料亭で芸者をあげるということは、今でいえば、キャバクラ通いに通じますね。料亭通いはなぜ、粋に感じるのでしょうか?これも、下世話な感じ方ですね。このような遊びを、俗っぽくなく捉えられるようにならなければなりません。
そして、神聖な境内には、「吉原今昔図」があります。これは、参考になります。吉原の、現在、過去、どこにどのようなお店があったか、手に取るようにわかります。神聖な神社に、俗の極み、遊廓〜現在のソープランドが、どこにあるか記されている図が掲げられているのです。日本の神道の大らかさに感銘を受けます。もともと、日本の神道は大らかだったはずなのに、大らかで俗な部分が薄れていって、神聖な部分だけが残っているような気がします、
境内社の「お穴さま」。地中に土地を守神様がいらっしゃるそうです。
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