鷲神社のサイトによると、神話の時代からの伝承のような話から始まりますので、非常に古い神社です。天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊命(やまとたけるのみこと)をお祀りしています。日本武尊命は聞いたことありますが、天日鷲命は聞いたことがありません。天日鷲命とは、天照大御神が、天岩戸にお隠れになった際に、弦という楽器を司った神様だそうです。その弦に鷲がとまったので、鷲という字がお名前に入っているそうです。
その天日鷲命を祀った神社に、日本武尊命が東征の際に、鷲神社で戦勝を祈願し、志を遂げて帰還する際に、社前の松に武具の熊手をかけて祝ったそうです。その日が、十一月の酉の日であったことから、十一月の酉の日に例祭「鷲の祭」が始まりました。鷲の祭(とりのまち)が、いつの間にか「酉の市」と呼ばれるようになったようです。
上は、江戸切絵図、今戸箕輪浅草絵図です。現在と同じように吉原(新吉原)のすぐ西南にあります。南東には浅草寺があります。浅草は、江戸時代に入ってから繁華街として栄え始めた地であります。浅草寺の北側は、田畑の多い土地だったようです。そんな江戸の郊外に、江戸時代どころか、神話の時代から、この地に鷲神社があったのです。創建当時は、本当に何もなかったのではないでしょうか。
上は、歌川広重の「江戸名所百景 浅草田甫酉の町詣」。新吉原の遊女屋の格子窓越しに、熊手を担いで歩く人の行列が描かれています。こう見ると、吉原の周囲もそうですし、鷲神社の周囲も、田園地帯だったことが分かります。今とは全く違います。
鷲神社の境内散策
一番最初に載せた写真が、国際通りに面した叉木という門のような建造物があります。叉木の脇には、鷲神社のシンボルとも言える巨大な熊手があります。
叉木の向こうには、朱塗の大鳥居があります。
朱塗の明神鳥居を潜ると、天保10年建立の古い二の鳥居があります。この二の鳥居以外の建造物は、戦争で焼けたのでしょう。
鳥居を潜ると、樋口一葉の記念碑があります。樋口家は、明治26年(1893)から、1年足らず、すぐ近くの下谷区竜泉寺町(台東区竜泉寺)に移り住み、商店を営んでいました。吉原界隈を舞台に描かれた「たけくらべ」には、鷲神社の酉の市も登場します。
碑によれば、鷲神社の宮司が、昔の面影を失う町の当時のことを後世に伝えようと、平成5年に建立したと記されています。
また、叉木があります。
朱の鮮やかな神楽殿。
社殿は、戦争で焼けてしまった後、昭和28年(1953)に再建されたものが現在に至ります。再建といっても神話の時代からある神社ですから、これまで何度再建されたことでしょう。
本殿の賽銭箱には、巨大な「なでおかめ」が鎮座しています。なでおかめは、撫でるとご利益があるんだそうです。
おかめというのは、これまた神話の時代に遡るのですが、天宇津女命(アメノウズメノミコト)という神様だそうです。この神様も、天岩戸神話に出てくる神様で、天照大御神がお隠れになっている天岩戸の前で舞を舞った神様です。ご祭神の天日鷲命も天岩戸神話に関わりのある神様ですし、そういったことからこの巨大なおかめが祀られているのか、なでおかめが祀られている由緒はよく分かりません。
三代歌川豊国、二代歌川広重の描いた「江戸自慢三十六興 酉の町銘物くまで」。おかめは、縁起が良いとされ、江戸時代より、熊手におかめが飾り付けられるようになったようです。
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