東京メトロ日比谷線の三ノ輪から北に歩いて2分のところに浄閑寺はあります。
浄閑寺から、更に北東に行くと小塚原刑場跡があり、その南は、山谷のドヤ街であり、また、浄閑寺から南に歩くと吉原遊廓、今で言う吉原のソープランド街があります。そして、更に南に歩くと、江戸時代に穢多頭(被差別部落民をまとめた人)である弾左衛門の住居であった地域があります。
なんというか、東京でも、この地域の歴史は×××××。今では、下町の落ち着いた住みやすい町のようなのですが。という感想も、ここに住んでいない者だから言えるのでしょうか。分かりません。
吉原遊女の投込寺
そのような地域にある浄閑寺。明暦元年(1655)の創建です。翌年の明暦2年(1666)に、浄閑寺の南に、人形町にあった吉原遊郭が移転してきました。移転してきたからといって、特段何もなかったようですが、それから約200年後の安政2年(1855)に発生した安政の大地震から浄閑寺と吉原遊女の関係が始まったようです。
なぜだかはよく分かりませんが、安政の大地震で亡くなった吉原の遊女が、この浄閑寺に葬られたのです。それも、投げ込まれるように葬られたため、浄閑寺は「投込寺」と呼ばれるようになったそうです。
その後、多くの吉原遊女が投げ込まれたようです。浄閑寺山門前にある説明板によれば、寛保3年(1743)から、大正15年(1926)まで、遊女やその子供の名を記した過去帳が残っているのだそうで、江戸時代から、明治以降も、吉原の遊女が投げ込まれ続けたことになります。
今時のソープ嬢は、いろんなところに住んでいて、吉原に出勤してくるのでしょうが、江戸の頃の遊女たちは、吉原の廓の中で生活していました。過去帳に遊女の子供まで記されているということですから、私生児もいたでしょうし、そのような子供も吉原の廓の中で暮らしていたのでしょうか。
投げ込まれた遊女を供養するため供養塚が作られていたようです。本当かどうか分かりませんが、昭和4年に改修され、「新吉原総霊塔」として現在に至ります。この「新吉原総霊塔」には、2万人を超える吉原の遊女が葬られていると言われています。この新吉原総霊塔には、花又花酔の「生きて苦界死して浄閑寺」という句が刻まれています。こんな短い句で、遊女たちの過酷な一生と、死を全て表しているような気がします。
この句を詠んだ花又花醉という人は、明治生まれの画家らしいです。
永井荷風と浄閑寺
新吉原総霊塔の向かいには、荷風碑があります。濹東綺譚で有名な文豪、永井荷風は、遊女たちの幸薄い人生に思いを馳せ、しばしば浄閑寺を訪れいてたそうです。永井荷風は、娼婦などを小説に描き、実際に色街、花街、カフェーなどで、商売女に入れ込む人生を送っていた人であります。遊び人のような生涯を送った人ですが、その一方で、名もなき遊女たちの薄幸な人生に想いを馳せていたのですから、ただ女遊びに耽っていたわけではありませんね。
荷風は、「断腸亭日乗」に「浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の墓を建てよ。石の高さ五尺超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」と綴っておられます。亡くなったら、浄閑寺に葬ってくれということなのですが、その願いは叶わず、荷風は、雑司ヶ谷霊園に葬られています。
永井荷風の亡くなった4年後に、谷崎潤一郎などの荷風の後続の作家たちが、この荷風碑を立てたのです。
境内散策
小夜衣供養地蔵尊。山門前にありますが、以前は、境内にあったようです。小夜衣とは、吉原の京町一丁目にあった四つ目屋という遊廓の遊女だと伝わっています。四つ目屋の善蔵のお抱えだったそうですが、女主人に放火の罪をきせられ、火炙りの刑にされてしまったそうです。その後、一周忌、三回忌、七回忌など年忌のたびに、吉原では火事がおこり、四つ目屋はいつも全焼してしまったそうです。この小夜衣地蔵、悪いところを撫でると良くなると伝わっているそうです。
写真左は、江戸後期の書家、萩原秋巌の墓。左は、明治12、3年頃情死した品川楼の遊女、盛絲と内務省の小使、谷豊栄の追悼のために建てられた新比翼塚。この新比翼塚のことも、永井荷風は断腸亭日乗に書き記しています。
ひまわり地蔵尊。浄閑寺の南東は、ドヤ街、山谷地区。孤独に亡くなっていく山谷ドヤ街の日雇い労働者たちのために建てられた地蔵尊。吉原の遊女たちにもそうですが、弱者に寄り添うお寺なんですね。というか、この地域は、そのような人たちが歴史的に多かったということでしょうか。
浄閑寺の地図、アクセス
東京都荒川区南千住2−1−12
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