その遊郭造成の際にこの地にあった池の一部が残り、池畔に弁天祠が祀られるようになり吉原遊郭の楼主たちから信仰を集めたようだ。池は、新吉原の花園池とか弁天池などと呼ばれていた。
近くにある吉原神社の飛び地境内という位置付けのようで、吉原弁財天本宮は吉原神社の末社にあたるようだ。
境内を歩いていると、この辺りの歴史が垣間見えて面白い。
緑豊かな境内には、石碑や石仏があちらこちらにある。
「蛇塚」という石碑がある。
享保17年(1732)に刊行された「江戸砂子」に、蛇塚の記載があり、その当時は蛇が多かったという気探されている。考古学者の鳥居龍蔵氏は、その塚は古墳だったと指摘している。
この蛇塚の碑が、江戸砂子のいう蛇塚なのかどうかよく分かりませんが。古墳があったんですかね。鳥居龍蔵氏によれば、浅草寺の境内にも古墳が多くあったようだ。江戸時代には、浅草は郊外だったけど、古墳が多くあったということは、古墳時代まで遡ると大きな集落があったということなんだろうな。
大正12年(1923)の関東大震災で、吉原遊郭は大火災に見舞われたのだが、火災から、熱風から逃げようとした遊女や、その他の人たちがここにあった弁天池に飛び込み、500人以上が亡くなった。
弁天池での犠牲者の供養のために大正15年(1926)に観音像が建立された。
弁天池は、昭和34年(1959)に埋められてしまい、今は、申し訳程度の池があるだけになっている。
社殿の壁面には、カラフルでアーティスティックな弁天様が描かれている。東京芸大の学生さんが描いたようだ。
社殿の前に「新吉原保女子健組合」と刻まれた祠があった。新吉原女子保健組合とは、吉原で働く従業婦の組合のようだ。戦後に新吉原女子睦会として発足したようだ。今もあるのだろうか。
「大華」、「角海老」は、吉原遊郭にかつてあった大店。
真ん中にある石碑は、昭和35年(1960)に建立された「花吉原名残碑」。その名の通り、この地に吉原遊郭があったという名残を記したもの。碑文は共立女子大学教授で俳人だった山路閑古氏によるもの。
碑文の内容は、「日本橋にあった吉原(元吉原)が、この地(新吉原)に移ってきて、吉原の店は美しい遊女を囲うことで、客を取り込むことを競い、とても賑やかで繁栄したと。そして幾たびの火災、そして震災、戦災を受けたにもかかわらず再興してきたが、昭和33年の売春防止法施行に対しては、一夜にして消滅してしまった。」というような、吉原のような繁華街を潰してしまった売春防止法に対する恨み言のような内容が刻まれている。
遊郭という風情や、文化は分かるのだけれど、女子大の教授がこのような碑文を書いたなんて、今の時代だとどうなんだろうと感じたりするのだけれど、かといって遊郭に風情や文化を感じないわけでもない。こういうのを見るとなんだか複雑な気分になるものだな。
吉原弁財天本宮の地図、アクセス
東京都台東区千束3−20−2
吉原弁財天本宮 情報交換
吉原弁財天本宮について、足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿
こちらからコメント、情報をお願いします。