土手通りから、五十間通りを経て、吉原大門にたどり着きます。吉原大門と言えど、現在の大門は素っ気ない門であります。気にして歩かないと見落としてしまいます。ここが、吉原遊廓の入り口となります。
この吉原大門をくぐった通りが仲之町通りという吉原遊郭のメインストリートで、過去には、この通りに大きな妓楼がたち並んでいたのです。現在では遊郭時代の建物はほぼ残っていませんが、それでも風情ある建物が少し残っています。
時を経て、遊郭からソープランド街に変貌を遂げた吉原。しかしながらソープランドは、この仲之町通りにはあまりありませんので、この通りであれば女性でも気兼ねなく散策できると思います。新陳代謝の激しい東京なので、微かに残った風情ある建物がいつ無くなってしまうか分かりません。早ければ早いほど、風情を味わえると思います。
仲之町通りの地図、アクセス
吉原への最寄駅は、東京メトロ日比谷線の入谷駅か、三ノ輪駅になります。最寄りと言っても徒歩で10数分かかります。江戸時代からそうですが、ここ吉原は今でもアクセスはあまり良くはありません。
東京都台東区千束3丁目、4丁目
江戸時代の吉原大門と、仲之町
吉原遊郭のメインストリートとも言える仲之町通り。国立国会図書館で提供されている浮世絵や写真で、華やかりし江戸時代からの吉原の変遷を見て頂ければと思います。
最後に、私が散策した現在の吉原をお伝えしますので、吉原散策のポイントをチェックして頂ければと思います。
歌川国貞「北廓月の夜桜」(国立国会図書館) |
現在では素っ気ない大門ですが、江戸時代の大門は、とても立派な門でした。上は、歌川国貞の「北廓月の夜桜」に描かれた吉原大門。立派な門に、通りの真ん中には大きな桜があり、大勢の人出で賑わっています。江戸の頃の吉原遊廓は、この中心街である仲之町通りに桜が咲き乱れるとても華やかな街だったのです。
吉原大門をくぐると、仲之町の通りの両側には、妓楼が立ち並んでいて、現在とは全く違う景色が広がっていたことが分かります。
上は、一立斎広重(歌川広重)が描いた「東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図」。左下が吉原大門で、そこから真っ直ぐ桜並木の仲之町が伸びています。
二代目・広重の描いた「東都三十六景 吉原仲之町」、豊国(歌川国貞)の描いた「江戸自慢三十六興 新よし原仲の町の桜」。「東都三十六景 吉原仲之町」には、現在の吉原では絶対に見ることのできない花魁道中が、描かれています。花魁とは、遊廓の中で最高級の遊女であります。黒塗りの高下駄を履き、打掛には龍が描かれています。ゴージャスですね!
花魁道中で圧巻なのは、下の「新吉原江戸町二丁目 佐野槌屋内黛◯◯之図」。一恵斎芳幾(落合芳幾)が描いた花魁道中。題名からは、江戸二丁目にあった佐野槌屋という妓楼の花魁道中だと思われますが、桜並木がありますので、仲之町通りを練り歩いているのかなと思われます。
遊郭の文化である花魁道中。現在では、そんなことをソープランド嬢がするはずもなく、そんな優雅な遊郭の文化は、今はソープランドという即物的な文化に昇華してしまっているのです。
現在のソープ嬢は、人目を憚るように出勤したりしていますが、江戸時代のソープ嬢というか娼妓たちは、人目を憚るどころかこんなに堂々と町を練り歩いていたのです。まぁ、現代人の私には、人目を憚るように歩いているソープ嬢の方が何かその陰がある方が興味をそそりますが・・・
吉原遊郭の場所からは外れますが、浅草観音裏(奥浅草)で年に一回開催される浅草観音うら・一葉桜まつりで、花魁道中が再現されています。
今でも吉原はソープランド街として風俗街としての歴史を受け継いでいますが、江戸時代、吉原遊廓は、浮世絵もそうですが、歌舞伎など、さまざまな文化の発信地でありました。
たばこ、履物、季節料理「大黒屋」。何が本業なのか分かりませんが、昭和レトロな看板建築が素敵です。
現在の風俗嬢とは違い、当時の遊女は、琴、三味線、舞踊、茶道などの芸事も、基本として身につけておかなければなりません。また、上級武士や裕福な商人を相手にするにはそれなりの教養が必要であったと言われています。そのような中で、遊女自体、花魁(太夫)、新造、禿などの階級分けされていました。
また、妓楼を経営する楼主は、芸を好んだのでしょう。俳諧、狂歌などの文化人を庇護し、歌舞伎役者のパトロンであったりもしました。
文化と密接に関わっていてい、文化の発信地であったことは、現在の風俗街とは違う一面ではないでしょうか。浮世絵の美人画に多くの娼妓が描かれていますが、これは、現在の風俗情報誌と言ってみれば同等なものかもしれません。が、現在の風俗情報誌が、300年後に発見されて、歴史的文化価値を見出されてりするのでしょうか。まぁ文化は発信していないような気がします。それだけ、江戸時代は、おおらかな時代でもあったのでしょう。
明治に入ってからの吉原大門と、仲之町
明治期の吉原大門(国立国会図書館) |
明治に入ると大門は、和風な門から、洋風な門に様変わりしています。門というよりアーチですね。
明治期の吉原遊郭(国立国会図書館) |
この明治の写真帖には、新吉原は、娼家楼100軒、娼妓3000人と書かれています。この時代になっても、吉原は、新吉原と記載されており、日本橋にあった吉原(元吉原)と、世代を超えてずっと区別されてきたのですね。
そして、この頃の建物にはまだ趣があります。現在の吉原、仲之町通りは、無味乾燥な通りとなってしまっていて、往時の華やかな街並みは失われています。
東京大空襲でほぼ全焼吉原遊郭は、赤線として再スタートしました。溝口健二監督の「赤線地帯」という1956年の映画があるのですが、この映画の舞台は吉原です。
映画を見ると、それまでの吉原の遊郭たる華麗な妓楼が立ち並ぶのではなく、モダンなカフェースタイルのお店が建ち並んでいます。溝口健二監督はセットや描写のリアリティに非常にこだわる監督でしたから、この映画で描かれる赤線時代の吉原は当時の吉原を映し出しているものと思われます。
また、今の風俗街なんて、私の勝手な想像ですが、風俗嬢同士、またお店の人と風俗嬢との人間関係なんて希薄な、ただのビジネス関係でしかないと思います。ですが、赤線地帯には、遊女同士、また、お店の経営者との関係が良くも悪くも生き生きと描かれています。この頃までは、吉原にも人情が残っていたんだなと思われます。
この当時のカフェー建築の遺構を見たい方は、伏見通り、江戸町通り、角町通りの路地裏、揚屋町通りあたりを散策してみて下さい。これらの遺構も日々、スクラップ・アンド・ビルドの波にさらされているので、お早めに行かれることをお勧めします。
現在の仲之町通りの街並み
無味乾燥な街になってしまった仲之町通りですが、レトロな建築が少し残っていて、散策に味わいを与えてくれます。
桜なべ仲江別館 金村(2021年撮影) |
上の「金村」の表札の建物。これは、この吉原でも最後まで残っていた料亭の建物です。平成21年に閉店となってしまいましたが、その後、土手通りにある桜鍋の老舗「中江」が、この「金村」を引き継ぎ、現在は、「桜なべ仲江別館 金村」として営業しています。「金村」時代は、政財界のお客も来ていた程のお店だったようです。
料亭跡?(2021年撮影) |
1階部は、なんの変哲もないのですが、2階と屋根を見るとなんだか、ただの建物ではないような、料亭か何かだったのかなと感じさせる建物です。
大黒屋(2021年撮影) |
2021年撮影 |
閉業してしまっていると思しき看板建築たち。この仲之町通りが、いつ頃まで賑わっていたのか分かりませんが、現在は、この通りにはもうソープランドはほぼありません。ソープランドは、仲之町通りと交差する、江戸町通り、角町通りなどにあります。
2021年撮影 |
閉店してしまっている蕎麦屋(2021年撮影) |
この建物は、もう閉店してしまった蕎麦屋「大村庵」。明治創業だそうです。この建物がいつ建てられたか分かりませんが、趣のある建物です。
和菓子 二葉屋(2021年撮影) |
和菓子屋さんの「二葉家」は、営業しています。戦後から営業しているようです。
2021年撮影 |
2021年撮影 |
2021年撮影 |
仲之町通りを南西に歩いて行き、吉原遊廓内を抜けると、通りが屈折します。吉原大門前の五十間通りのようであります。五十間通りは、土手通り(江戸時代は日本堤といった)を通る大名行列から見えないように屈折させて見えないようにしたため、その名残が残っています。
しかしながら、こちら側は、田畑であり、道はありませんでした。たまたま屈折しているのでしょうか。
この辺りに区立台東病院があります。まさかと思いましたが、やはり成り立ちは性病専門の病院でした。文化とかなんとか言っても、過酷な仕事に間違いはありません。
⑦京町通りソープ街としても寂れてしまった通り
⑧花園通り南側のお歯黒どぶ(羅生門河岸)の暗渠
仲之町通り 情報交換
仲之町通りについて、足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。私も知らないことが多いので、ぜひお願いします。
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