ラベル 通り の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 通り の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年5月10日土曜日

梅田神明宮通り商店会|下町の古道にあるノスタルジック商店街

 ホーム東京の商店街>梅田神明宮通り商店会
ホーム東京の通り梅田神明宮通り商店会


 東急スカイツリーラインの梅島駅から旧日光街道を南下すること10分、レンガ舗装された路地が現れる。通りには「神明宮通り」の街灯が建てられているので、この通りが商店街だということに気づく。駅から少し離れた路地にしては、キレイに整備された商店街。とは言え、商店数はかなり減っているんだろうなという印象。
 日光街道から分岐したこの通りは実は古い通りで、ここから王子に至る王子道と呼ばれていた。
 明治以降の近代化より前は、田園地帯であり、王子道も田園地帯を通る道だったが、日光街道から王子道に分岐するところには、かつて秋田藩主の佐竹氏の広大な抱屋敷があった。屋敷の周囲は構堀をめぐらせた立派な屋敷だった。田園地帯にポツンと豪奢なお屋敷があったのだ。
 佐竹氏の屋敷の歴史を物語る遺構として、この分岐点より北に佐竹稲荷神社がある。佐竹氏の屋敷神として建立されたものだ。ここの説明板によると佐竹氏の屋敷は延宝8年(1680)から享保3年(1718)まであったということなので、それほど長くあったわけでもないようだ。


 その後、その敷地がどうなったのかは分からないが、そのような大屋敷があったとはいえ、この通りは田園地帯のただの田舎道だったんだろう。
 ただ、私にはあまりイメージはなかったのだけれど、この辺りは製紙業が盛んだったそうだ。古くは、江戸時代から農家が農業のかたわらに紙漉きをしていて、梅田を含む周辺の地域の農家は、製紙によってかなり裕福だったことが、文政10年(1827)に刊行された「経済要録」に書かれている。
 田舎の田園地帯とはいえ、このあたりの農家は、かなり裕福だったようだな。
 そして明治末から大正に入ると、機械式の製紙業が登場するにあわせて、この地域も機械式の製紙が増え、盛んになっていった。梅田は、こうして田園地帯から変わっていった。
 また、大正13年(1924)に東武伊勢崎線(現、東武スカイツリーライン)の梅島駅が開業したことも、梅田が変わっていくきっかけになったようだ。


 そのような梅田と、この神明宮通りの歴史を遡っていくと、なんでこんな駅から離れた路地裏のような通りが商店街になったのか分かるかなと思ったが、全く分からないな。近くに都電の停車場があったわけでもないし。
 王子道という古い通りだし、昔から人の往来も多く、昔から商家もそれなりにあった通りなのかな。そうだろうな。そういうことなんだろうな。


 足立区商店街振興組合連合会のサイトによると、この商店街が成立したのは戦後の昭和23年(1948)に商友会が結成されてからということだ。そして、このあたりは戦災に遭い、当時は人家もまばらだったとのこと。
 また、商店街設立の際、「商店街の復興に努力を・・・」と書いてある。もしかしたら、戦災前には、ここに商店街があったのかもしれない。きっとそうだろう。戦後、いきなり、ここに商店街ができるっていうこともないだろう。


 レンガ舗装され、街灯も整備されているので、以前はきっと、商店がたくさんあり賑わったんだろうが、商店はまばら。この細い通りに商店がたくさん並んでいたら、なかなか風情あるだろうな。




 今回は、半分くらいまでしか歩けなかったので、いずれ最後まで歩いてみよう。

田神明宮通り商店会の地図、アクセス

東京都足立区梅田3丁目、4丁目、6丁目

田神明宮通り商店会 情報交換

梅田神明宮通り商店会について、足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。

2025年2月15日土曜日

一葉桜光月通り(一葉桜 千束入谷振興会)|春には一葉桜が咲きほこる、吉原の近くにある通り

 ホーム東京の商店街>一葉桜 千束入谷振興会
ホーム東京の通り>一葉桜光月通り

 根岸、下谷から吉原遊郭に通じる通りが金美館通り。金美館通りの入谷2丁目の交差点から南下する通りが一葉桜光月通り。一葉桜というのは荒川堤で栽培されていた桜の品種で、このあたりには光月通りのほかにも、一葉桜国際通り一葉桜小松橋通りなど、一葉桜の名を冠した通りがいくつかある。一葉桜が植えられている通りが多いんだな。


 一葉桜光月通りを南側から入ると、立派な木製の看板が建っている。
 この辺りは、歩いていると材木屋が多くある。東京の材木屋が多い地域というと木場だが、ここ光月町も、江戸の頃から材木屋が多い地域だった。そんな地域のアイデンティティーを示すために木製なのだろう。


 この看板は平成21年(2009)に建てられたようだ。「一葉桜 千束入谷振興会」と書いてあるので、おそらく商店街の組織の名前なのではないだろうかと思われるが、光月通りに商店は数えるほどしか残っていない。いや、残っていないというのが正しいのか、そもそも光月通りには昔から商店はなかったのか。
 そして、看板の冒頭には「旧光月町」と書かれている。今では、この通りの両サイドは千束と入谷という町名だが、明治後半から昭和40年頃までは光月町という地名だった。この地の地名の歴史への敬愛が込められているんだな。


 右の立派な看板建築は、2016年頃まではシャッター商店だったようだが、今は宿泊施設かなんかにリノベーションされている。その頃の隣の建物は「日本髪 峯原」という、髪結か何かがあったようだが、今は看板が無くなっている。
 浅草や吉原に近く、日本髪の需要が近年まであったのか。いや、吉原で日本髪の需要なんてもう100年も無いだろうな。


 角に建つ25㎡ほどの平屋。これは駄菓子屋とかそんな類の商店だったのかもしれない。間口の広さとか、中は土間のように見えるし。


 この一葉桜光月通り、果たして商店街なのか、一葉桜千束入谷振興会が商店街組織なのか分からないが、商店はほとんど見当たらず、マンションだらけである。


 ただ、このような看板建築がポツポツ残っているし、かなり遠い昔は賑やかな商店街だったのかもしれない。ネットで検索しても全く情報は出てこない。なんの手がかりもない。



 金美館通りとこの辺りで交差する。一葉桜千束入谷振興会の街灯と思われる街灯がこの辺りまでなので、一葉桜光月通りもここまでだと思われるが、もっと北上してみる。


 浅草の情報発信サイトによると、このは創業48年。建物は新しくなっているようだが、店内のソファーなんかは昭和レトロな懐かしい感じ。お昼前だったが、ご近所さんたちが集まるのか、多くのお客さんがいた。




 この酒屋はまだやっているのかどうかはよく分からないが、ワンカップ大関の自販機がレトロで沁みる。500円硬貨が使えるので昭和57年以降の自販機ということかな。ただ硬貨投入口は塞がれているので現役ではないようだ。
 こういう個人商店が、この通りには多くあったのかな。


 これは何のお店だったか、古い商店建築が残っている。


 戦前、戦後あたりからあると思われる和菓子の龍月



 昭和レトロなCOFFEヒデ。エメラルドグリーンのタイルが眩い。


 ショーケースを見る限り、舞台用かつらの会社かな。かつての芸の街、浅草に近いからなーと思ったが、この会社は大阪の会社。


 かなり年期の入った材木商。


 こちらも年期の入った建物。看板はまる剥げになっているが、「島津金蔵庫製作所」と書いてあったように見える。金蔵庫って金庫のことか?


 その島津金蔵庫製作所の前には龍泉寺がある。この辺りの町名、竜泉の元になったお寺だ。

葉桜光月通り(一葉桜 千束入谷振興会)の地図、アクセス

東京都台東区千束2丁目、入谷2丁目

葉桜光月通り(一葉桜 千束入谷振興会) 情報交換

一葉桜光月通り(一葉桜 千束入谷振興会)について、足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。

2025年1月26日日曜日

金美館通り②入谷金美館通り大正会|商店は少なくなっているが、昭和の風情の残る商店街

 ホーム東京の商店街>入谷金美館通り大正会
ホーム東京の通り>金美館通り


 根岸、鶯谷方面から吉原に通じる道が金美館通り。入谷方面から入って大正小学校前の信号までは入谷金美館通り商店会という商店会組織になっているが、その先は入谷金美館通り大正会という商店会組織になる。
 台東区商店街連合会の入谷金美館通り大正会の沿革によると、昭和33年(1958)に組織が発足したようで、それまでは入谷金美館通り商店会に属していたようである。それからの1960年代には商店街が衰退していったのだけれど、衰退前夜に独立したということなのか。この辺りがどうだったのかはわからないけど。


 お店を見ていると時の止まったような老舗が多く軒を連ねている。建物も古い商店建築が多くある。
 この山城園茶舗なんかも、建物から佇まいからとても歴史を感じる。お茶だけでなくて、茶器なんかが並べてあるので、海外の人とかが珍しそうに眺めていたりする。


 こちらは、終戦前年の昭和19年(1944)創業の食堂清月   和菓子屋からスタートして、いつからか食堂に転じたようだ。鯵フライや生姜焼き、クリームコロッケ、刺身、ポテトサラダ、肉豆腐など、大衆的なメニューが揃っていて、お酒のアテにも最高だ。
 お店の凛とした佇まいは、大衆的というよりも敷居を感じる。下町のジェントルマンよろしく酒を飲むのもいいだろう。


 そしてこの花見煎餅吾妻屋。昭和28年(1953)創業。下町の手焼きせんべい、昭和の風情がそのまま残っている。


 店頭で、煎餅を手焼きしていた。この日は、近所の鷲神社で酉の市をやっていたのだが、酉の市の日だけ、店頭で手焼きをしているそうだ。





 かつてはもっと商店があったのかもしれないが、今は商店は少なくなっている。商店の建物の遺構のような建物は多く残っていて、昭和の頃の賑わいを思い起こしながら散策するのがいいだろう。商店が少なくなっていても、チェーン店などの進出が少なく、昭和、戦前、戦後あたり創業のお店が残っているのがいい。



美館通り②入谷金美館通り大正会の地図、アクセス

東京都台東区入谷2丁目

美館通り②入谷金美館通り大正会 情報交換

金美館通り②入谷金美館通り大正会について、足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。

2025年1月13日月曜日

金美館通り①入谷金美館通り商店会|入谷から吉原へ

 ホーム東京の商店街>入谷金美館通り商店会
ホーム東京の通り>金美館通り


 根岸、鶯谷方面から吉原に通じる道が金美館通り。
 現在は、吉原ソープランド街に通じているが、これは、近代になってから。江戸時代の吉原遊郭はお歯黒どぶと呼ばれる堀で囲まれていて、吉原に入る入り口は東側にある吉原大門のみであり、それ以外は入ることはできなかった。なので、当時は浅草や三ノ輪から土手通りに入り吉原に行っていた。
 おそらく金美館通りは、江戸切絵図でいうと「今戸箕輪浅草絵図」の明るく抜いている辺りになるんだろうから、ここを通っても吉原には入れないので遠回りになるし、田んぼ道を歩かなきゃいけない。なので、ただの田舎道だったんだろうかな。
 とはいえ、ネットでいろんなサイトを見ていると、江戸時代から吉原へ行く道として栄えたような記載もあるのでよく分からない。

今戸箕輪浅草絵図
江戸切絵図「今戸箕輪浅草絵図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

 今の金美館通りは、吉原の西から普通に入れる。江戸時代は、吉原の中央通りといえる仲之町通りがあり、その西のどんつきは水道尻と呼ばれ裏門があった。この裏門は、江戸時代は閉ざされていたのだが、それが、いつから入れるようになったのか、私は知らない。


 それにしても、この通りの金美館。金美館とはなんなのか不思議だったのだが、調べてみると、大正15年(1925)に開館した入谷金美館という映画館があったからだそうだ。金美館は、古い映画館チェーンで、東京や神奈川にいくつもあったようだ。


 台東区商店街連合会の入谷金美館通り商店会の沿革によると、昭和のはじめ頃に「協生会通り商店会」が組織され他のが商店街としての始まりのようだ。そして、戦後の昭和22年(1947)に入谷金美館通り商店会に変更されたようだ。
 この通りには昭和5年(1930)創業の入谷市場というスーパーもあったそうで、かなり商店街として賑わっていたんだろうな。その入谷市場も近隣に大型スーパーができてしまい、平成26年(2014)に閉店してしまった。


 商店街は、再開発、巨大資本などに打ち負かされ、かつての賑わいを奪われてしまったところが多く、入谷金美館通り商店会も御多分に洩れず、大型スーパーにやられてしまったんだな。
 そのような商店街と同じように、かつてから残るレトロな建物などがの、残っているので、そんな建物を眺めつつレトロな景観を愛でるのが、楽しみなのである。



 ほら、こんな立派な商店が。
 昭和4年(1929)に建てられた酒屋さん。この酒屋さん自体は、明治33年(1900)創業という超老舗。金美館通りの歴史におそれ入ります。



 看板が妙に、味のあるヘアモードサロンアラヰ。


 油そばの名店、万人力がある。


 看板建築や、瓦屋根の和風の商店建築もあり、レトロな街並みに心が和むな。


 こちらの店構えも立派!金澤米店
 私が子供の頃は、サザエさんに出てくる三河屋さんのように、酒屋や米屋が配達に来てたけど、今では、みんな自分でスーパーで買うから、こんな町のお米屋さんも大変だろうな。
 とはいえ、こだわりのお米を販売して検討されているようだ。サイトに創業90年を超えるって書いてあるから、昭和初期あたりから営業しているようだ。すごいな金美館通り。



美館通り①入谷金美館通り商店会の地図、アクセス

東京都台東区入谷1丁目

美館通り①入谷金美館通り商店会 情報交換

金美館通り①入谷金美館通り商店会について、足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。