2020年7月26日日曜日

龍興山 臨江寺|根津の緑あふれるお寺

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 根津銀座通りのせんべい屋「大黒屋」がある路地をへび道方面に入って行くとお寺が三寺並んでいます。この三寺は、江戸切絵図に載っている由緒あるお寺です。


 その一つがこの「臨江寺」です。道路から石畳が延びて山門につながっており、境内は緑に覆われており、また、その先はビルもなく往時を偲ばせる景色ではないでしょうか。
 切り絵図には、三寺の前の通りの向かいに小川が描かれていますが、これは、不忍池に流れる藍染川です。今は、暗渠となってしまい、通りの下を流れています。この藍染川が今も日の目を見て流れていれば、緑と川とお寺と、とても趣のある通りだったのではないか、と思いながら散策するしかありません。


 参道の奥には、木造の立派な山門があります。
 山門をくぐって境内に入ってみると、外から見た通り、木が生い茂った緑が多く、とても心地の良い境内です。本堂の屋根には獅子瓦があります。また、境内には、以前使われていたであろう立派な鬼瓦が置いてあります。瓦には拘りがあるのでしょうか。



 緑の境内の奥に、木造の本堂があります。



 石畳の参道を入ってすぐ、石柱と台東区教育委員会の説明板があります。説明によりますと、
 『蒲生君平墓(国史跡)
  蒲生君平は、明和5年(1768)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。通称伊三郎、字を君臧、君平、修静または修静庵と号した。姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将蒲生氏郷(がもううじさと)の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の一人と称せられている。
  幼児から学問に励み、長じて水戸藩士藤田幽谷(ゆうこく)を知り、節義と憂国の感化を受けた。寛政(1789ー1800)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)「山陵志」を完成させた。これは、幕末の尊王論の先駆けをなすものとして名高い。
  後、江戸に出て著述に専念し、文化10年(1813)に没した。「蒲生君臧墓表」と題した墓石には四面にわたって藤田幽谷の撰文を刻む。昭和17年国史跡に指定された。
  山門にある「勅旌忠節蒲生君平」の石柱は明治初年政府が建立したものである。』と記されています。

臨江寺の地図、アクセス


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