その一つがこの「臨江寺」です。道路から石畳が延びて山門につながっており、境内は緑に覆われており、また、その先はビルもなく往時を偲ばせる景色ではないでしょうか。
緑の境内の奥に、木造の本堂があります。
石畳の参道を入ってすぐ、石柱と台東区教育委員会の説明板があります。説明によりますと、
『蒲生君平墓(国史跡)
蒲生君平は、明和5年(1768)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。通称伊三郎、字を君臧、君平、修静または修静庵と号した。姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将蒲生氏郷(がもううじさと)の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の一人と称せられている。
幼児から学問に励み、長じて水戸藩士藤田幽谷(ゆうこく)を知り、節義と憂国の感化を受けた。寛政(1789ー1800)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)「山陵志」を完成させた。これは、幕末の尊王論の先駆けをなすものとして名高い。
後、江戸に出て著述に専念し、文化10年(1813)に没した。「蒲生君臧墓表」と題した墓石には四面にわたって藤田幽谷の撰文を刻む。昭和17年国史跡に指定された。
山門にある「勅旌忠節蒲生君平」の石柱は明治初年政府が建立したものである。』と記されています。
『蒲生君平墓(国史跡)
蒲生君平は、明和5年(1768)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。通称伊三郎、字を君臧、君平、修静または修静庵と号した。姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将蒲生氏郷(がもううじさと)の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の一人と称せられている。
幼児から学問に励み、長じて水戸藩士藤田幽谷(ゆうこく)を知り、節義と憂国の感化を受けた。寛政(1789ー1800)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)「山陵志」を完成させた。これは、幕末の尊王論の先駆けをなすものとして名高い。
後、江戸に出て著述に専念し、文化10年(1813)に没した。「蒲生君臧墓表」と題した墓石には四面にわたって藤田幽谷の撰文を刻む。昭和17年国史跡に指定された。
山門にある「勅旌忠節蒲生君平」の石柱は明治初年政府が建立したものである。』と記されています。
臨江寺の地図、アクセス
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