根津銀座通りから善光寺坂に差し掛かるあたりにあるお寺です。木造瓦屋根の立派な薬医門には「天眼禅寺」と書かれていますが、寺号は「天現寺」です。江戸切絵図にも「天眼寺」として同じ場所に記載があります。
天眼寺の墓地には、江戸時代の儒学者の太宰春台の墓があり、山門横に東京都教育委員会の説明があり、以下のように記されています。
「東京都指定史跡
太宰春台墓
太宰春台は、江戸時代中期の儒学者、経世家です。名を純と言い、字を徳夫と称していました。信州飯田に生まれ、江戸に出て但馬出石(たじまいずし)藩の松平氏に仕えました。17歳で儒学者中野撝謙に師事し、朱子学を学びました。元禄13年(1700)、21歳で官を辞し、以後10年の間京都、畿内を遊学し、その間に古学派に親しみました。
正徳3年(1713)、再び江戸に出て、萩生徂徠に復古学を学びました。孔子伝古文孝経を研究し、校訂して音註を作り、諸藩に分かちました。また儒学の基本をなす経学の分野では、『論語古訓』および『論語古訓外伝』など数十巻を著しました。儒学の思想に関するものとしては『聖学問答』、『弁道書』などがあります。
延享4年(1747)5月晦日、68歳で没しました。お墓は円頭角柱型の桿石に隷書で『春台太宰先生之墓』と題し、三面に銘文を刻んでいます。高さ1.32m。」
「東京都指定史跡
太宰春台墓
太宰春台は、江戸時代中期の儒学者、経世家です。名を純と言い、字を徳夫と称していました。信州飯田に生まれ、江戸に出て但馬出石(たじまいずし)藩の松平氏に仕えました。17歳で儒学者中野撝謙に師事し、朱子学を学びました。元禄13年(1700)、21歳で官を辞し、以後10年の間京都、畿内を遊学し、その間に古学派に親しみました。
正徳3年(1713)、再び江戸に出て、萩生徂徠に復古学を学びました。孔子伝古文孝経を研究し、校訂して音註を作り、諸藩に分かちました。また儒学の基本をなす経学の分野では、『論語古訓』および『論語古訓外伝』など数十巻を著しました。儒学の思想に関するものとしては『聖学問答』、『弁道書』などがあります。
延享4年(1747)5月晦日、68歳で没しました。お墓は円頭角柱型の桿石に隷書で『春台太宰先生之墓』と題し、三面に銘文を刻んでいます。高さ1.32m。」
儒学者のようですが、歴史で習ったような習ってないような、復古学の荻生徂徠も習ったような習っていないような。よく分かりません。
お寺の創建は、延宝6年(1678)となっています。松平下総守の奥方が開基されてそうで、松平家の菩提寺だったようです。
木造の本堂は、立派な木造ですが、特に何も案内がないので、建て替えられてものでしょう。
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