忍小通りを東大に突き当たって、右に進むとなだらかな坂になっています。この坂道は、「暗闇坂」と言いう名前ですが、今では、暗かった面影はなく、閑静な住宅街となっています。途中には美術館もあり、なかなか良い佇まいです。
坂の入り口には、年季の入った趣のある民家があります。
なだらかな坂ですので、入り口から見ると坂になっているように見えません。
少し進んで、来た道を振り返ると、なだらかに坂になっているのが分かります。逆光ですみません。
坂を登って行く道中、左手は東大です。今は、東大ですが、江戸時代は、加賀前田家の大きな屋敷がありました。右手には、江戸時代は、お寺があり、それに続き、水戸藩の屋敷がありました。大きな屋敷や、寺に挟まれて、江戸時代は暗い道だったのでしょう。
江戸切り絵図で見ると、道というか、水戸殿と加賀宰相殿の境目の線しか描かれていません。
今は、住宅になっていますので、暗い道だった面影はありません。しかし、想像して見ると加賀前田家の屋敷があった今の東大のある場所は、本郷台地。江戸時代は、この本郷台地の上には加賀前田家の屋敷があったのでしょうが、台地の崖の部分は、鬱蒼としていたのかもしれません。
この閑静な住宅街と化した暗闇坂を歩いて行くと「竹久夢二美術館」があります。竹久夢二作品の蒐集家、鹿野琢見氏により、平成2年(1990年)に創設されました。
その竹久夢二美術館の壁には、「東京大学医学部戦没同窓生之碑」があります。東大の向かいですから、このような碑があるわけですが、説明書きを見ると、どうやら医学部の同窓生の方は、大学構内に碑を作りたかったようですが、医学部教授会より許可が下りず、大学構外にこの碑を作ったようです。戦没者の碑といいうとどうしても右寄りな感じがしますし、東大というと左寄りな感じがしますから、理解されなかったのでしょうか。(完全に、私の主観です・・・)この碑は、この地にお住いの鹿野家のご了解を得て建立されたと書かれておりますので、竹久夢二美術館は、創設者の鹿野家の住宅だったのでしょう。
この辺りに来ると、傾斜がきつくなって来て、やっと「暗闇坂」と標識が現れます。傾斜がきつくと書きましたが、これは、この暗闇坂内での比較であります。決してきつい坂ではありません。
竹久夢二美術館を過ぎると、今度は、「弥生美術館」があります。まさに、美術館通りです。
この弥生美術館も、鹿野琢見氏が創設された美術館です。こちらは、竹久夢二美術館より早い昭和59年(1984年)に創設されました。鹿野氏は、幼少時代に少年・少女雑誌に掲載されていた挿絵に非常に大きく感銘を受けており、特に高畠華宵から感銘を受けており、明治・大正・昭和の挿絵や、漫画等をテーマに展示しています。
少し歩くと、東大の弥生門が見えて来ます。
弥生門、弥生美術館・・やけに弥生という名称が多いですが、東大の向かい側は、江戸時代は水戸藩の屋敷でしたが、明治5年に向ヶ岡弥生町と町名がつけられ、昭和40年まで、この町名が使われていました。由来は、水戸家9代斉昭が建てた歌碑から取られたと、坂の途中に町名由来が書いてあります。「文政十余一とせといふ年のやよいの十日・・・」という歌の碑があったようです。
弥生門の向かいには、詩人の「立原道造記念館」がありましたが、平成23年(2011年)に閉館しました。
弥生門の向かいには、詩人の「立原道造記念館」がありましたが、平成23年(2011年)に閉館しました。
坂は、少しずつ傾斜が出て来て、言問通りに突き当たり、終わりになります。
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