不忍池から東京大学に至る坂道です。坂の途中に講安寺というお寺がありますが、この講安寺と奥にある稱仰院は、無縁山法界寺というお寺であったことから、無縁坂という坂名がついたようです。
左手に続く石垣、レンガ塀の奥は、旧岩崎邸庭園があります。江戸時代は、越後高田藩榊原氏の中屋敷があった場所です。また、この奥の東大は、加賀前田家の上屋敷でありましたし、武家屋敷の多い坂道でしたので、武家に縁がある武縁坂、武辺坂とも呼ばれていたようです。
江戸切絵図で確認すると、確かに坂は、榊原式部大輔、松平備後守、加賀宰相殿に三方を囲まれています。講安寺の周りは町家だったようです。江戸時代の江戸は、ほとんど、どこを見回しても武家屋敷のような気もしますが。
坂を登る途中、右手に味のある民家が。昭和レトロな香りがします。
旧町名案内によれば、昭和40年まで、湯島両門町という町名だったようです。講安寺と稱仰院の二つの門前町だったからのようです。案内には、「数年前まで格子戸のある木造の家があった」と書かれています。この案内板がいつ建てられたのかわかりませんが、古い町家が残っていたということなのでしょうか。今は、その面影はありません。その代わり、上の昭和なコンクリート造りを彷彿とさせる民家があるのみです。
坂の途中に、坂名の由来と、森鴎外の小説「雁」に、この無縁坂が主人公の散歩道として登場していることが紹介されています。無縁坂は、雁の他に、さだまさしさんが属していたフォークバンド「グレープ」の「無縁坂」という曲にも使われています。母に手を引かれて無縁坂を登った思い出から母の人生を歌った歌です。単に無縁坂という坂名の語呂のうら寂しさからこの歌に使ったのか。さだまさしさんは、長崎ご出身ですから、ここでお母さんに手を引かれて歩いたことは無いでしょう。と、調べてみると、「ナガジン」という長崎の情報サイトには、長崎にある墓地に登る階段ではないかとの情報がありました。いろいろな思い出が混じって作られているのでしょうか。
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