浅草国際通り商店街のビルの間に山門があり、ビルの谷間に参道があります。江戸切り絵図「今戸箕輪浅草絵図」には、ほぼ現在と同じような位置関係に記載されています。
本堂はやはり、浅草ならではの鉄筋コンクリート造りの立派な本堂です。
都内でも、特に、浅草のお寺は、コンクリート率が高いような気がします。というか、コンクリートのお寺しかないような気がします。同じ東京の寺町でも、谷中、根津あたりは、建て替えられていたとしても、木造が多いような気がします。どちらでも良いのでしょうが、観光客としては、木造の方が、観光したような気になります。まあでも、ビルの谷間に参道があったりするのは、東京ならではでしょうし、その奥に鉄筋コンクリートの本堂があるというのも、都会ならではの光景なのでしょうか。
話は、全く変わりますが、浅草は、芸の街です。今で言えば、ナイツや、ビートたけしなどの東京漫才出身の人もいますが、江戸の郊外であった浅草は、江戸時代から、大衆文化が、江戸の中心から移されてきて、歌舞伎などの大衆文化で栄えたのであります。
明治以降も、文化の街として非常に賑わったのですが、いつしか、繁華街は、山手線内に移ってしまい、繁華街としての浅草は廃れてしまいました。
清光寺には、浅草が芸の街として華やかだったことを思い起こさせる碑があります。
まず、境内にはいって先に目に入るのが、「長谷川一夫の碑」です。長谷川一夫氏は、昭和を代表する俳優さんらしいです。昭和後期生まれのおじさんの私ですら、全く存じ上げないのですが、昭和初期の映画から、テレビまで幅広く活躍された方のようです。何故、ここに長谷川一夫氏の碑があるのかはわかりません。お墓もないようですし、ご出身も京都で、関西歌舞伎で幼少の頃から活躍していたようです。劇団一家の出身なのでしょうか。松竹シネマを経て、昭和初期には東宝映画に転籍したと記されています。松竹は、東京では浅草を中心にしていたので、松竹時代に、浅草にいらっしゃったのでしょうか。ちなみに、お亡くなりになられたのは西麻布と碑に書かれています。
そして、その左隣には、岡崎屋勘六の墓があります。この人も知りませんね。台東区教育委員会の説明板がありますので読んでみましょう。
「 岡崎屋勘六墓
いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、号を勘亭と称し、延亭3年(1746)江戸に生まれる。境町(現中央区日本橋)に住み、御家流の書を指南して能書家として知られていた。
勘六は、安永8年(1779)中村座の依頼を受け、従来の浄瑠璃正本の文字などを参考に春の狂言の大名題を書いた。これが、歌舞伎文字勘亭流のはじまりとされる。以来、中村座の看板を書きつづけ、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行し、天明年中(1781〜88)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化2年(1805)59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。
勘亭流は、御家流の書風に様式化を加えたもので、現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われている。
墓跡裏面には
ありがたや心の雲の晴れ渡り
只一筋に向かう極楽
と、勘亭流で刻まれている。
平成13年3月」
「 岡崎屋勘六墓
いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、号を勘亭と称し、延亭3年(1746)江戸に生まれる。境町(現中央区日本橋)に住み、御家流の書を指南して能書家として知られていた。
勘六は、安永8年(1779)中村座の依頼を受け、従来の浄瑠璃正本の文字などを参考に春の狂言の大名題を書いた。これが、歌舞伎文字勘亭流のはじまりとされる。以来、中村座の看板を書きつづけ、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行し、天明年中(1781〜88)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化2年(1805)59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。
勘亭流は、御家流の書風に様式化を加えたもので、現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われている。
墓跡裏面には
ありがたや心の雲の晴れ渡り
只一筋に向かう極楽
と、勘亭流で刻まれている。
平成13年3月」
清光寺の地図、アクセス
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