狭いながらも風情のある参道の奥に本堂があります。ここは、浅草、東本願寺の参道脇の長屋の脇の路地になります。これが、善照寺の参道になります。
江戸切り絵図には、同じ場所に「善正寺」と記載があります。照が正になっていますが、以前は、このように称していたのでしょうか。分かりません。
緑に覆われた境内にある本堂は、質素ながらも独特の存在感を放っています。白を基調とした壁の真ん中に切れ込みがあり、ガラス張りになった入り口。無機質な鉄筋コンクリート造りでありながら、仏教寺院としての厳かさと、優しさをたたえている感じがします。
懐古趣味のある私は、木造入母屋造の本堂に惹かれるわけですが、この無駄を排した鉄筋コンクリートの建築は、何の飾り気もないデザインは、煩悩を排除した、仏教の哲学を本堂が教えてくれます。これぞ、現代の仏教建築の新しい提示なのではと思います。
この辺りのお寺は、震災や空襲で焼失し、鉄筋コンクリートで建て替えられたお寺が多く、善照寺も例に漏れずコンクリート造りですが、その中でも一際異彩を放っております。
調べてみますと、善照寺の本堂は、昭和に活躍された建築家の白井晟一さんの作品だということです。
路地裏の名店ではないですが、人目につきづらい場所にある一見の価値のあるお寺です。
また、善照寺には、江戸後期の国学者・歌人の清水浜臣の墓があります。とは言え、清水浜臣なんて知らないですね。参道に東京都教育委員会の説明板があり、次のように記されています。
「 東京都指定史跡 清水浜臣墓
清水浜臣(1776ー1824)は江戸時代後期の国学者・歌人です。通称は玄長、泊洦舎(ささなみのや)、月齋などと号します。不忍池の辺りに居を構えたため泊洦と号したといわれます。医師道円の子として生まれ、医を業とします。村田春海に古学を学び、古学の研究で一家をなします。「万葉集考註」「伊勢物語添註」などの学書や、「泊洦文集」などの歌集、「県門遺稿」などの編著があります。特に旅行を好み、「杉田日記」「甲斐日記」などの紀行も残しています。」
そういう方のようです。
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