街灯の柱には、「十二社商店親睦会」と書いてあります。商店親睦会という割には、お店があまりありません。
江戸切絵図、名所図会等に見る角筈十二社
この辺りには、昭和43年(1968)まで、十二社池という池がありました。江戸切り絵図「内藤新宿千駄ヶ谷邊圖」には、十二社権現(現在の熊野神社)の西側に池が描かれています。これが十二社池です。十二社池から北側に川が流れています。
この川の先には、ヨドバシがあり、今も神田川を渡る青梅街道上に淀橋があります。十二社池から、このヨドバシあたりで、神田川に流れていたのだろうと思われます。
また、現在は、熊野神社の西側に十二社通りがありますが、切り絵図でも分かりますように、江戸時代にはありません。しかしながら、十二社権現から離れた東側に、十二社道という通りがあります。現在の青梅街道と甲州街道をつなぐ道のようですが、なぜ、これが十二社道なのでしょうか。確かに途中で西に曲がれば、十二社権現に行けますから、十二社道なのでしょうか。誰か教えて下さい。
また、「江戸名所之内 四谷角筈十二そうの池熊のゝ社」には、下のように描かれています。水辺で緑が多く、茶屋などがあり、とても風光明媚な景勝地だったことが窺えます。
手前のお社のような建物が熊野神社だと思われますので、熊野神社の脇まで、水辺があったようです。
現在の角筈十二社
江戸時代には、このように観光地でしたが、明治に入ってからは、このような風流な場所ですから、料亭ができ、花街として栄えたのです。最盛期には、1000軒以上の料亭や置き屋があり、300人以上の芸者さんがいたそうです。
それが今では、こんなうらびれた路地裏となっています。商店親睦会といえど、お店はあまりなく、活気も何もあったものではありません。
お稲荷さんがありました。名前が書いてありません。何というお稲荷さんなのでしょう。花街や、遊郭には、商売繁盛などを祈願してお稲荷さんがよくありますが、その類いでしょうか。
うらびれた十二社商店街ですが、飲食店が少しありました。
馬肉料理屋の「馬鹿うま」さんと鳥料理の「志な川」さん。志な川は、昭和の時代から営業している老舗のようです。
更に、先に進むと、「味陶庵 志奈川」、ラーメン「山田屋」があります。志奈川は、先ほどの志な川と兄弟店か何かのようです。外観は、和食屋さんのようですが、洋食屋さんのようです。こちらも、昭和の時代から営業しているようです。この辺りの隆盛をずっと見てきたのでしょう。
歩を戻して、先ほどのお稲荷さんの辺りまで戻ると、何かちょっと味のある坂道がありました。
そして、坂の途中には、味のある塀が。今は民家のようですが、塀は、民家にしては趣がありすぎるような。元は料亭とか、置き屋だったのではと想像を掻き立てられます。
その塀の向かいには、緑に囲まれた趣のある建物が。居酒屋ですが、元料亭を改装したお店だそうです。やはり、この坂道には、料亭があったんですね。その昔は、芸者さんが歩いていたのです!この路地裏坂道に!
そして、店名は「品川亭」この辺りは、「しながわ」ばかりです。こちらも兄弟店のようです。
坂を上り切ると、また路地があります。この入り組んだ感じも花街を思い起こさせます。
坂の上の路地をくねくね歩いていると、こんな古風な建物があります。これは民家でしょうか。料亭という感じではないですかね。
いずれにしても、新宿の都会に、こんな建物が残っているのが素晴らしいです。
この路地は、また坂になっていて、下り坂です。これも何だか趣を感じます。
この坂の下は、池だったのです。
池を眺めらながら、この坂の料亭で、酒興が繰り広げられていたのでしょうか。
池の畔まで降りる階段だったのでしょうか。このなだらかな階段は、下駄を履いた芸者さんが歩きやすいように造られた階段なのでしょうか。
この階段坂の南には、別の坂道があり、坂の中腹には、こんな建物が。旅館と書いていますが、以前は、料亭だったようです。坂の中腹で見晴らしが良さそうですね。十二社池がよく見えそうです。
その坂を下った辺も、十二社池だったのでしょう。坂の勾配でよく分かります。
その坂の下には、南北に伸びる通りがあります。この通りには、ビルの間に巨木があります。私は、樹木の専門家でないので、この巨木が樹齢何年なのか分かりませんが、そこそこ古くからある木なのではないかと思います。
ということは、十二社池は、この巨木よりも東側にあったのかなと想像できます。
この巨木の奥には、「そば処福助」さんという蕎麦屋さんがあります。昭和からある老舗の蕎麦屋さんだそうです。
この通りは、低層のマンションが並んでおり、その一階部は、飲食店が入っております。花柳界華やかりし頃は、この辺りも、芸者さんが歩いていたのでしょうか。
この通りの突き当たりには、これまた料亭か何かだったのかと思わせぶりな建物があります。この突き当たりまで、この通りの東側には、十二社池があったようです。
十二社と文学
戦前、定職につくことができず貧民街を渡りあるいた女性作家、林芙美子という人がいました。その林芙美子が自身の放浪生活の日記をもとにした「放浪記」に、十二社や、角筈がたびたび出てきます。林芙美子自身も十二社に住んだ時期があったのです。ただ、よくよく調べてみると、私の不勉強からか、位置関係がよく分かりません。
「近松氏から郵便が来ていた。出る時に十二社の吉井さんのところに女中が入り用だから、ひょっとしたらあんたを世話してあげようと云う先生の言葉だったけれと、その手紙は薄ずみで書いた断り状だった。」
「今日こそ十二社に歩いて行こう−そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃ・・・・・・
十二社まで送ってあげるという青年を無理に断って、私は一人で電車道を歩いた。・・・
十二社についた時は日暮れだった。・・・私は堤の上の水道のそばに、米の風呂敷を投げるようにおろすと、そこへごろりと横になった。・・・遠く続いた堤のうまごやしの花は、兵隊のように皆地べたにしゃがんでいる。」
「十二社の鉛筆工場の水車の音が、ごっとんごっとん耳に響く。・・・
部屋の中を見回してみる。かび臭い。床の間もなければ、棚も押入れもない。」
「風車小屋だよりは、ぜいたく至極な物語で、十二社の汚い風車小舎とはだいぶおもむきが違うのであろう。」
「まばゆいばかりの緑の十二社。池のまわりを裸馬を連れた男が通っている。」
「まず、おっかさんを宿へ残して角筈を振り出しに朝の泥んこ道を、カフェーからカフェーに歩いてみる。朝のカフェーの裏口は汚くて哀しくなってしまう。・・・お女郎屋が軒なみなので、客は相当ある由なり。」
「角筈のほてい屋デパートは建築最中と見えて、夜でも工事場に明るい燈がついていた。」
放浪記に出てくる角筈や十二社は、こんな感じです。鉛筆工場の水車や、ほてい屋が印象的で調べてみたのですが・・・
鉛筆工場は、現在の三菱鉛筆の前身の工場が、内藤新宿にあったようです。内藤新宿ですので、現在十二社と言われている場所とは異なるような気がします。ほぼ四谷あたりになるのですが。西新宿にも鉛筆工場があったのでしょうか。また、角筈のほてい屋とありますが、ほてい屋は、新宿三丁目、現在の伊勢丹の場所にありました。古い地図を見てみると、伊勢丹の向かいあたりまで、角筈村であったようであります。と云うことは、角筈はなんとななく位置関係に合点がいきます。
ですが、十二社は、どうなのでしょう。内藤新宿あたりまでも十二社と言ったのでしょうか。放浪記には、「池のまわりを裸馬を連れた・・・」と書かれていますから、十二社池のことでしょうか。
誰か教えて下さい。よく分かりません・・・
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