2021年1月3日日曜日

十二社熊野神社|江戸の景勝地、今は新宿ビル街の西の外れにある神社

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 室町時代の応永年間(1394−1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が故郷の紀州熊野三山から十二所権現を移し祀ったものであると伝えられています。諸説あるようですが。
 鈴木家は、代々、熊野三山の祠官を務めたそうですが、源義経に仕えたため、欧州、東国を敗走し、九郎の代に中野に流れ着いたようです。今では、大都会新宿ですが、当時は、田舎でしたでしょうが、この地域を鈴木九郎は開拓をはじめ、自身の鈴木家の産土神である熊野三山の若一王子宮を祀りました。
 その後、鈴木九郎は財を成し、中野長者と呼ばれるようになりました。応永10年(1403)には、熊野三山の十二所権現すべてを祀ったそうです。
 熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社のことをいい、三社全ての祭神が12神であることから、熊野十二所権現と呼ばれています。
 このようなことから、この新宿の熊野神社も、江戸以前には、熊野十二所権現と呼ばれました。


十二社の池と十二社の滝

 慶長11年(1606)、田畑の用水溜として現在の熊野神社の西側に二つの池が開拓されました。
 現在、熊野神社の西側にある十二社通りの更に西側に、池があったのです。浮世絵や、江戸名所図会などには、下のように大きな池と緑豊かな景観が描かれています。

浮世絵 江戸名所之内 四谷角筈十二そうの池のゝ社


江戸名所図会 角筈村熊野十二社権現社

 また、十二社には、いくつかの滝がありました。
 この辺りは、大きな十二社池、滝、そして多くの緑に囲まれ、江戸の西郊の景勝地であったのです。今では想像できない景観ですが。享保年間(1716−1735)には、茶屋が多くでき、とても賑わったようです。

江戸名所図会 熊野滝

 また、明治以降は、十二社池周辺には、料亭が立ち並び、角筈十二社花街を形成したのです。これも、現在では考えられませんが。
 今では、熊野神社の周囲に池や滝があり、風光明媚な場所だったんだなと想像を楽しむしかありません。

十二社熊野神社、境内散策

・十二社(じゅうにそう)の碑


 嘉永4年(1851)3月に建てられた碑です。十二社の地が、滝や池のある江戸西郊の景勝地であることを記念した碑であります。負笈道人の撰による碑文と、寺門精軒による漢詩が刻まれています。
 寺門精軒という人は、江戸市中の様子を記した「江戸繁盛記」の著者として知られる人で、負笈道人という人は、中野宝仙寺の僧侶だそうです。熊野神社が、単なる信仰の場であるだけでなかったということを伝える碑であります。

・社殿、狛犬

 社殿は、空襲を免れたそうですが、昭和30年代から40年代にかけての新宿副都心構想により、社地4,000坪が道路用地として接収され、その際、社殿は移築されたそうです。
 現在の拝殿は、昭和9年(1934)に、明治神宮を改築した際の古材を譲り受け造営されたそうです。




 狛犬の台座には、「文化元年九月」と刻まれています。1804年からいることになります。

・境内社


 境内社の大鳥神社。大鳥神社は、日本武尊が御祭神です。どこの大鳥神社でもそうですが、こちらも11月酉の日には、酉の市が開催されます。が、熊手商や露店は出ないようです。


 大鳥神社の隣にあるのが、胡桃下稲荷神社。手前には、弁天社。十二社池はありませんが、その名残の意味でしょうか、小さな池があります。

・その他、石碑


 左は「古ひづか」の石碑。「古ひづか」とは、「鯉塚」のことで、十二社池が昭和初期、水質汚染のため、大量の鯉が死んだため、埋めて塚を気づいた際に置かれた石碑。宅地開発のため、石碑が境内に移されました。
 その隣は、太白堂桃隣の「白桃や雫も落須水の色」という句の句碑です。太白堂桃隣(天野桃隣)は、江戸時代初期から中期の俳人で、松尾芭蕉の従兄弟、甥などと伝わる人です。


 「島川玄丈人壽兆碑」。紀伊徳川家の侍医の島川草玄の長寿を記念して建てられた碑です。文化4年(1807)に建てられました。

十二社熊野神社の地図、アクセス

東京都新宿区西新宿2−11−2

 

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