谷中の善光寺坂の中腹にある玉林寺を、中興させた僧侶の
風室興春が隠居するためのお寺として江戸時代初期に創建したお寺です。
玉林寺は、善光寺坂からの参道が長く、境内も広いお寺ですが、こちらの永久寺は、谷中の三崎坂にあり、隠居寺ということだからか、こぢんまりとしたお寺であります。
そして、明治維新の際の上野戦争では、彰義隊が立て篭もったそうです。いやいや、こんな穏やかな谷中の町が、その当時は、血みどろの戦いを繰り広げていたのです。
永久寺と仮名垣魯文
そのようなおどろおどろしい歴史もありますが、文化的な一面も持ち合わせています。江戸末期から明治初期にかけて、戯作や、ジャーナリストとして活躍した仮名垣魯文のお墓があり、仮名垣魯文にゆかりの石碑が
あります。
仮名垣魯文は、たいそうな猫付きだったようで、その猫好きの魯文にちなむ石碑がいくつかあります。
上は、猫塚碑。魯文と同時代を過ごした文学者、ジャーナリスト
成島柳北撰文が刻まれています。何が書いてあるのか分かりません。猫の絵も刻まれていますが、この目、鼻、口は、魯の字を模しているんだそうです。こんなこと言うとあれかもしれませんが、私にはどう見てもそうは見えません。
この猫塚碑は、もともと谷中霊園の中にある「高橋お伝」という人のお墓の近くにあったそうです。
高橋お伝という人は、明治の初めに、旦那を亡くし、困窮。ある男から、愛人になれば金を貸してくれると言われたが、貸してくれなかったため、殺人を犯してしまった人です。斬首刑にされています。斬首刑にされた最後の女囚と言われているようですが、それは事実ではないようです。毒婦といわれていますが、とても苦しい生活の中でそのような事件が起きたのでしょう。
この事件を、魯文は、「
高橋阿伝夜叉譚」という戯作に書き上げ、芝居興行が成功したため、歌舞伎役者たちが、谷中霊園に墓を建てたのです。本当の墓は、南千住の回向院にあります。何かちょっと、ひどい話ですね、不幸な女性をネタに大きな興行収入を得たんですね。谷中のお墓は、その供養の意味もあるのでしょうか。
本堂の前には、「山猫めを登塚」、「猫塔記念碑」。
山猫めを登塚は、こちらも魯文にゆかりの石碑で、明治14年(1881)10月に建てられました。魯文が飼っていた雌雄の山猫を供養する碑であります。この山猫を譲ったのは、海軍卿の榎本武揚だったようです。
隣の
猫塔記念碑は、明治11年(1878)、魯文が主催した珍猫百覧会の収益で建てられた碑だそうです。
パッと見、素っ気のない記念碑ですが、
碑の丸くくり抜かれた穴の中には、眠り猫の石像があります。
猫に関する作品の展示や、ものまね、落語などが行われたそうです。本当に猫好きなんですね。
その他の石碑
本堂の前には、何やら古そうな石碑、石仏、鬼瓦などがあります。本堂は、上野戦争の際、焼けたといいますから、過去の本堂に使われた鬼瓦なのでしょうか。それにしても無造作に置かれているので、よく分かりません。説明書きとかあれば、よりありがたいのではないかと勝手に思います。
左にある石仏は、「妙泉禅定・・・」「享保六・・九月・・」と刻まれています。享保6年ですから、とても歴史のある石仏のようです。また、妙泉とは、どういうことでしょうか。谷中に妙泉寺というお寺がありますが、それと何か関係があるのでしょうか。分かりません。
江戸切絵図の中の永久寺
永久寺の地図、アクセス
東京都台東区谷中4−2−37
0 件のコメント:
コメントを投稿
こちらからコメント、情報をお願いします。