創建は、文禄3年(1954)。隣に江戸時代、内藤新宿の飯盛女が亡くなると葬られていたため投げ込み寺と呼ばれた成覚寺がありますが、創建年が同じです。
境内に入るとすぐ、奪衣婆像があります。奪衣婆とは三途の川にきた死者の衣服を剥ぎ取る鬼の老婆。その剥ぎ取った衣服は、今度は縣衣翁という鬼の老爺が川のほとりの木にかけ、そのしなり具合で生前の業、罪の重さが測られたんだとか。そんなことから閻魔大王の奥さんだとも言われてるんだそう。そういえば、近くの太宗寺は、閻魔堂があるな。何か関係あるのかな。
正受院の奪衣婆像は、小野篁の作であるとの伝承があるんだそう。小野篁というと平安時代の公卿ですが、地獄と行き来して、閻魔大王のそばで裁判の口添えをしていたという伝説が残る人。そんな伝説があると、この奪衣婆像を作ったというのも関係ありそうな感じもしますが、新宿教育委員会の案内板には構造や作風から江戸時代初期の作と考えられると書いています。
奪衣婆は、咳止めや子どもの虫風じに霊験があるといわれていて、ご利益があった際は綿を奉納するという風習があったんだそう。今でも正受院の奪衣婆像は、綿を被っています。
江戸時代の一時期、奪衣婆信仰が流行ったようで、歌川国芳は多くの浮世絵を残しています。
また、江戸時代末期の事件や噂話が書かれている「藤岡屋日記」に、正受院に押し入った泥棒が奪衣婆の霊力によって捕らえられたとか、綿に引火した火をもみ消したなどの噂話が載せられたため、奪衣婆信仰が一気に加熱したんだそう。嘉永2年(1849)の新年には江戸中から参詣者が集まり大変なことになっため、寺社奉行から参詣の制限がかけられたそうです。今は、靖国通り沿いにひっそりとあり、その盛況ぶりは想像できませんが。
正受院では、2月8日に針供養が行われています。大きな豆腐に針を刺して供養します。その時は参拝客で賑わいます。
境内にある梵鐘は、宝永8年(1711)に鋳造されたもの。太平洋戦争の時に金属供出されたため、武器などにされる運命にあったのですが、戦後、なぜかアメリカのアイオワ州立大学で発見されたんだそうです。その後、正受院に返還されたため、平和の鐘と呼ばれています。
正受院の地図、アクセス
東京都新宿区新宿2−15−20
正受院 情報交換
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