世界最大とも言われるゲイタウン新宿二丁目の北、靖国通り沿いに小寺があります。戦国の世、文禄3年(1594)の創建と伝わっています。
宿場町の内藤新宿には、男性の相手をする飯盛女をおく旅籠屋がたくさんありました。男性の相手をする飯盛女と書きましたが、ストレートに言うと売春婦。このような飯盛女は、貧困家庭の子供が人身売買され連れてこられ、そして、当時の売春ですから性病も多くあったため若くして亡くなる人が多かったようです。
そうして年季奉公中に亡くなった飯盛女が葬られたのが、ここ成覚寺。
亡くなった飯盛女が葬られた惣墓(共同墓地)は、成覚寺墓地の一番奥にあったそうです。葬られた墓標として建てられていたのが子供合埋碑で、土地の区画整理のため現在は境内に安置されています。なんで子供なんだろうか。
飯盛女は亡くなると、着物や飾りは剥ぎ取られ、米俵にくるんで成覚寺の墓地に投げ込まれたんだそうです。投げ込まれた、そう、投げ込み寺。台東区の三ノ輪にも投げ込み寺と呼ばれている寺、浄閑寺があります。こちらは吉原の亡くなった遊女が投げ込まれていたのです。
台座には旅籠屋中と刻まれています。飯盛女を抱えた旅籠屋共同で建てた墓標なんでしょうか。身売りされ、売春し、無惨に亡くなった女性たち。墓標を建てたくらいで罪滅ぼしになるのか・・・
その他、境内には恋川春町の墓と、旭地蔵が並んでいます。
旭地蔵は、内藤新宿の南にあった玉川上水の北岸に建てられていたといいます。道路拡張のため成覚寺の境内に移されたんだそうです。寛政12年(1800)から文化10年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人たちの戒名が記されています。そのうち、7組の男女は悲恋のため心中した飯盛女と客だと思われるそう。たった18年の間にそんなに心中があるとは驚いた。今の時代、とある風俗街で心中する人が果たしているのだろうか?
そういえば、近松門左衛門の「曽根崎心中」は、まさに遊女と客が悲恋のうちに、来世で結ばれるために心中する物語。当時の自由に恋愛できない社会事情、死生観も関係あるのか、心中がブームとなってしまっていたようなんです。
また、旭地蔵にお参りすると夜泣きが治るといわれ、夜泣地蔵とも呼ばれたそうです。
隣の恋川春町の墓。恋川春町は、江戸中期の浮世絵師、狂歌師、戯作者。特に「金々先生栄花夢」で知られています。
成覚寺の地図、アクセス
東京都新宿区新宿2−15−18
成覚寺 情報交換
成覚寺について、勝手な感想を書いてしまっています。皆様の訪れた感想、また足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿
こちらからコメント、情報をお願いします。