2023年5月3日水曜日

宝寿山 長命寺|関東風桜餅発祥のお寺

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 向島の見番通り。かつて、花街で華やいだところ。今は微かに面影を残すのみ。見番通りの西の隅田川の堤、墨堤は江戸の頃から桜の名所として知られ江戸郊外の観光地だった。定かではないが元和元年(1815)頃に創建とされる長命寺は、江戸時代の初め頃から、ここ向島にあるということになる。
 江戸切絵図「隅田川向嶋絵図」には、長命寺の土地は寺嶋村になっている。寺嶋というと滝田ゆうの漫画「寺島町奇譚」を私は思い出す。「寺島町奇譚」とは、ここより1.5kmくらい北東の東向島駅の近くにあった私娼街「玉の井」を舞台にした漫画。そうなんです、近代のこの辺りは向島の花街、そして玉の井の私娼街と、色街だったんです。今では考えられませんが。
 話がそれてしまったが、寺嶋村ということは、この長命寺は今の場所よりも少し北にあったということになるのだけど。今は、弘福寺に隣接しているし、江戸名所図会でも弘福寺と近接して描かれているので、今と同じようにお隣さんだったのだろうか。
 多分、この隅田川向嶋絵図が間違えているのだろう。長命寺の南に川が描かれているが、これは古川(鷭堀)と呼ばれた川だけど、長命寺は、この古川より南にあったはずだ。




 長命寺は、創建の頃は宝樹山常泉寺と号していたそうだ。長命寺と寺号が変わったのは、三代将軍徳川家光に由来する。なんでも家光が鷹狩に来た時に腰痛を起こした。その時に住職が用意した般若水(井戸水)で薬を飲んだら痛みが止まったんだそうで、それで、家光は井戸水を長命水と名付け、お寺も長命寺になったんだそうだ。


 江戸時代の本堂は、安政2年(1855)の地震で焼失してしまい、その後は麻布の武家屋敷を移築して本堂としていた。なかなか風流な建物だったらしいが、これも関東大震災で焼失してしまった。また、境内には芭蕉堂、観音堂、地蔵堂、般若堂、弁天堂などがあったが、これも震災で焼失してしまっている。
 江戸時代、桜の名所だった墨堤の桜は、八代将軍徳川吉宗が植樹したものだが、その当時、長命寺に山本新六という門番がいた。この人が、墨堤の桜の葉を塩漬けし、今でも関東風として知られる桜餅を作り始め、長命寺の門前で売り始めた。享保2年(1717)のことで、当時は山本屋といったそうだが、今は長命寺桜もちというお店になっている。
 江戸の頃から、長命寺の桜餅は人気があったようで浮世絵にも描かれている。


 歌川豊国の「江戸自慢三十六興 向島堤ノ花 并二 さくら餅」。女性二人が竿に桜餅の包みを下げて歩いている。


 こちらも歌川豊国「雪月花の内 花曇」。三囲神社近くの川岸にあった竹屋の船着場の屋形船。船に桜餅の包みがのっている。
 今の長命寺は、山門を入るとすぐ幼稚園になっていて、何だか素っ気もないお寺に見えるが、その中身は歴史と文化にいろどられたお寺なのだ。

寿山 長命寺の地図、アクセス

東京都墨田区向島5−4−4
 


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