平安初期、弘法大師が祀った田中稲荷がはじまりだと伝わる三囲神社。
室町時代の文和年間(1352−1356)、近江の三井寺の源慶というお坊さんが田中稲荷を改築した際に、土中から白狐にまたがる老翁の像が出てきた。その像の周りをどこからか現れた白狐が三度回ってまた、どこかに行ったという縁起から「三囲(みめぐり)」という名が付けられたと伝わっている。
ここは向島。東京スカイツリーからほど近い隅田川のほとり。この周りは、かつて向島花街として栄えた花柳界の風情が微かに残る下町。
江戸切り絵図「隅田川向嶋絵図」や江戸名所図絵に描かれている三囲神社は、隅田川の堤から田園地帯を参道が通るのどかな景色が描かれている。ただ気になるのは、三囲神社の参道脇、隅田川の堤下に「料理家平石」というのが書いてある。そして堤沿いには桜が描かれている。
この辺り、田園地帯でありながら、隅田川沿いの桜が咲く、そんなところに寺社仏閣が建つ風光明媚な観光地だったのかな。料理家平石というのは何なのか。調べてみると歌舞伎座のサイトの江戸食文化紀行というのに記載があった。「この店は『葛西太郎』の名で、名物評判記の『富貴地座居(ふきじざい)』(1859)に江戸の料理屋の名店の一つとしてあげられており、鯉料理が有名でした。」
なるほど、鯉料理が有名な実在の名店だったんだ。何だか東京にいて鯉料理なんて馴染みが薄い感じがするけど、「隅田川向嶋絵図」に載っている他の料理家、武蔵屋と大七も鯉料理が有名だったらしい。それはそうだ、隅田川という大川端なんだから、江戸の頃は鯉料理のお店が多くあったんだろうか。
今もそうだけど、隅田川沿いの墨堤は当然のごとく高く盛り上げられているので、墨堤からは低い位置にある。なので、墨堤越しに三囲神社を見ると鳥居が上の方しか見えない。そんな景観が浮世絵にも描かれている。
歌川豊国の「東都名所合」の「三廻」には、隅田川で釣りをする女性が描かれ、その向こう岸の墨堤越しに三囲神社の鳥居が見える。隅田川には屋根がついている船があるが、屋形船だろうか。風光明媚な土地に料理屋があったり、屋形船が往来していたり、のちに花街に発展する下地ができていたんだろう。
歌川広重の「江戸高名会亭尽」の「三圍之景」には、墨堤の上から三囲神社が描かれている。鳥居前には葦簀張りの茶屋があり、「幕の内 出羽屋」の幟や、「するが屋 柳亭狂文引札」という看板のようなのが描かれている。先の歌舞伎座のサイトの江戸食文化紀行には、この出羽屋に関しての記述もある。出羽屋というのは、芝居の幕間に出した幕の内弁当の店だそうで、この幟はその宣伝だったようである。引札は、江戸時代の広告なので「するが屋 柳亭狂文引札」というのもこれも宣伝広告を意味するものなのかな。
花柳界が残る町とはいえ、今ではひっそりとした下町なのだが、料理屋があったり、広告の幟があがっていたり、三囲神社の周辺は人の集まる賑やかなところだったことがうかがえる。 話は変わって、三囲神社、三井を囲むような字面であることから、江戸の豪商、三井家が守護神としたことから、三囲神社には三井家にまつわるものも多くある。
三井銀行に入行後、三井呉服店に勤め、その後、三越百貨店を創業した日々美勲(翁助)の歌碑。「いしがきの 小石大石持合ひて 御代は ゆるがぬ 松ヶ枝の色」という句になぞらえて石垣で歌碑を作ったのだろうか。
平成21年(2009)に閉店した三越池袋店から移設された青銅製のライオン像。
その他、境内には石碑をはじめとする石造物が多くある。これは、伊賀上野城主の藤堂高睦が宝永3年(1707)に奉納した石灯篭。三囲神社で一番古い石造物。
林甫という人の歌碑のようだが誰なのか分からないが、どうやら幕末から明治頃の俳人のようだ。「水音や 花の白雲 冴かへる」
一番奥にあるのは、新吉原の妓楼の主人、五休の句碑。「陽炎や 其きさらぎも遠からず 蘆明庵五休」新吉原の妓楼の主人、現在になぞらえるとソープランドの店主ということになる。ソープランドの店主の歌碑が神社にあるなんて。日本の文化と道徳観念はいつどこで変わってしまったのか。今どき、ソープランドの店主の何かモニュメントでも神社に置こうとしたら、大変なことになりそうだ。日本文化の性に対するおおらかさが、欧米化の過程で、秘匿するもの、悪に置き換えられていったのかな。
元禄6年(1693)、大干ばつが発生したため、村人が三囲神社に集まり雨乞いをしていたそうで、それを見た其角が「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだそうで、そしたら次の日には雨が降ったそうだ。その句が石碑になっている。
大正9年に建てられた包丁塚。料亭街だったから建てられたのか。
真ん中は、百多楼団子と書いてあるのが分かるが、その両脇はよく分からない。百多楼団子とは、江戸後期の落語家らしい。
宗因白露の句碑。「白露や無分別なる置きどころ」。文化9年(1812)に建立されたもの。宗因は、江戸初期の連歌師、俳人。
江戸末期の五世川柳、明治末期の九世川柳の句碑。その奥には、夥しい朱色の鳥居。
白狐祠と刻んである。その奥に白狐祠があるのだが、その手前に老翁老嫗の石像がある。おそらく元禄14年(1701)に建てられたものだろう。元禄の頃、白狐祠を守る老夫婦がいたそうで、願い事がある人はその老婆に頼んでいたんだそう。そうすると老婆は田んぼに向かって狐を呼び、狐が願い事を聞いていったんだそうだ。
その老婆が亡くなったあと、里人や信仰者がこの石像をあ建てたといわれている。狐が願い事を聞いていったということよりも、今ではこんな都会の向島にも狐がいたということの方が驚きだったりする。
なんだか三囲神社は、境内にいろいろあり向島の歴史、文化を垣間見れる。
社殿は安政の大地震で罹災したため、文久2年(1762)に再建された。その後、明治17年(1884)に修繕され現存している。それにしても社殿の前にそびえ立つ二本の石柱はなんだろう。鳥居の上半分がぶった斬られたようになっている。その安政の大地震か関東大震災か何かで倒壊したのだろうか。調べたけど分からなかった。
延享2年(1745)奉納の狛犬。
享保2年(1802)奉納の狛狐。笑っているような柔和な表情が珍しい。
大国主恵比寿神社は、もともと越後屋に祀られていたものを遷したそうだ。
三囲神社の地図、アクセス
東京都墨田区向島2−5−17
三囲神社 情報交換
三囲神社について、足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。私も知らないことが多いので、ぜひお願いします。
0 件のコメント:
コメントを投稿
こちらからコメント、情報をお願いします。