西口には超高層ビルが立ち並ぶ新宿。東口には、伊勢丹、丸井などの巨大デパート、歌舞伎町という大繁華街。その大繁華街とショッピング街に挟まれるように花園神社があります。
靖国通り沿いのビルの谷間に大きな鳥居があり、参道が開口しています。参道もビルに挟まれていますが、参道には木々が生い茂り、周囲のビル街とは別世界です。写真は、冬に撮影したので、生い茂っていませんが・・・
鳥居をくぐってすぐある唐獅子像は、文政4年(1821)に鋳造された歴史ある像です。新宿区の有形文化財に指定されています。
鳥居をくぐってすぐある唐獅子像は、文政4年(1821)に鋳造された歴史ある像です。新宿区の有形文化財に指定されています。
花園神社のホームページによりますと、花園神社は、徳川家康が武蔵の国に入った1590年より前から、この地の総鎮守として重要な神社だったようです。現在の花園神社は、靖国通りの北側にありますが、当初は靖国通りの南側、現在の伊勢丹あたりにあったようです。寛政年間に現在の場所に移ったようです。当時、この場所は、尾張藩の下屋敷の庭で、たくさんの花が咲いていたことから、花園稲荷神社と呼ばれるようになったとのことです。花園稲荷神社というのは、特に正式な名称では無かったようで「稲荷神社」や、「三光院稲荷」、「四谷追分稲荷」などと呼ばれていたようです。
内藤新宿千駄木絵図 |
切絵図上では、赤丸の南側が当初の場所で、北側が現在の場所なのではないかと想像します。が、花園、稲荷、神社、三光院、何も記載がありません。それだけ小さな社だったのでしょうか。赤丸に挟まれている通りが靖国通りで、すぐその東に「追分」と記載されており、このあたりの大通り、現在の通りと大差なく、現在の通りを彷彿とさせます。北側の赤丸のあたりは「松平早次郎」と記載があります。松平なので尾張藩の方なのでしょうか。そうだとすれば、信憑性は高まるのですが。
また、花園神社が三光院稲荷と呼ばれていたのも興味深いです。現在の花園神社の東側には、三光商店街、すなわち、新宿ゴールデン街があります。かつてこの辺りは、三光町と呼ばれていましたが、さらに遡ると、三光院があったからなのですね。
花園神社では、毎週日曜日には骨董市が開かれています。日曜日は、境内のあちこちに、お店が出店されています。
靖国通り側から書き始めてしまいましたが、こちらの明治通り側の方が正門になるようです。失礼致しました。神社にお参りする際は、正門から入るのが正式だと思いますので、ご注意を。
浅間神社ですから、富士講と関係があるのでしょうが、こちらは、芸能に特化しているようです。芸能人の奉納者の名前がズラリと並んでいます。この日も、熱心にお参りされている方がいらっしゃいましたが、芸能界を目指されているのでしょうか。藤圭子さんの「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑がありますが、なぜでしょうか。芸能界に夢を抱く人達のための歌では無いような気がしますが。真逆なような・・・
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