神田明神は、東側には急な階段があり、それは、江戸時代から変わることなく急でありました。この急な坂の下は、神田明神の下ですから、江戸時代より、明神下と呼ばれてきました。
この神田明神下、江戸初期から中期にかけては寺社の立ち並ぶ地域だったようですが、明暦3年(1657)の明暦の大火ののち、大火災対策として、寺院を郊外に移すという方針が採られたため、このあたりにあった寺院は移転することになりました。
下の嘉永6年(1853)版の切絵図を見て頂ければ、お分かりの通り、明神下に寺院は一切なく、白色(武家屋敷)と灰色(町家)になっております。明神下と書いている通りの脇に御臺所町と書いてありますが、明暦の大火御、この地に「御臺所御賄方」の武家屋敷が建てられたからです。
この神田明神下のどこかに、架空の話ですが、岡っ引きの銭形平次が住んでいたことになります。
また、神田には、江戸時代、幕府御用達の市場があったそうですが、その市場の旦那衆が遊んだ花柳界が形成されていました。今は、全く芸者さんを、この界隈で見かけることはありませんが、明治から戦前にかけては、とても華やかだったようで、この明神下も花街だったのです。散策してみると、確かに名残を見せるような建築もあり、江戸の架空のヒーロー銭形平次から、花街にも想いを馳せながら散策してみるのも楽しいのではないでしょうか。
神田明神男坂上からの眺め |
ですが、実は、この章太亭は、この神田の歴史を物語るおでん屋さんでありまして、女将さんは、元神田の芸者さんだったそうです。
明神下 章太亭 |
神田明神下 みやび |
男坂を降りて交差する通りが「明神下中通り」です。数軒の飲食店があるくらいで、観光地の神田明神のすぐ近くではありますが、特に観光地としてお勧めできるような通りではありません。
しかしながら、昭和レトロ、廃れ好きには、楽しめる通りだと思います。神田明神と一緒に、この辺りの江戸から昭和の歴史・文化を感じてみたいと思われる方にはお勧めします。
古びた通りで、今は栄えていない感じのする通りですが、「明神下中通り」と立派に通りの名前がついているのは、やはり、昔、花街があり栄えたからなのでしょうか?
数軒の飲食店の建物、門構えが非常に昭和レトロであり、そして、花街の名残なのか?と思わせる建築があったり、そして、下町の工業所のような古びた建物あり、何か不思議な通りであります。
上の写真の建物は、一般の方のお住まいのようなのですが、それにしても普通ではない佇まいをしておられます。料亭を改築したのでしょうかと勝手に想像します。
上の写真も、今はちゃんこ屋さんですが、どうでしょう?以前は、料亭だったりして。
そして、明神下中通りから路地を入ると、料理屋さんが数軒あったり、以前は飲食店であったろう建物が残っています。
以前は、このような路地を、芸者さんが歩いていたのかもしれません。壊滅してしまっているのが寂しい限りです。
鰻蒲焼の老舗「明神下 神田川」の裏側があります。立派な建物と門構えですが、昔はこちらにお店があったのでしょうか?
このように、この通りには、昭和レトロな料理屋さん、そして料亭だったのか、料理屋さんだったのかと思われるような遺構がたくさんあるのです。
そして、そのような昭和レトロな飲食店と遺構と同じくらい多いのが、下町を思わせる小規模な会社、または小さな工場、その遺構。花柳界がありながら、会社であればまだわかりますが、小さな工場までもが密接している姿が不思議に感じます。今見ると、飲食店、工場、それぞれの遺構が混在していますが、どう時代に存在したのではないのでしょうか?
まあ、そんなことを疑問に思いながら、散策するのも楽しいものです。
レトロな飲食店だけではなく、新しいお店もあります。
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