2020年1月26日日曜日

専称山 安養院 西念寺|伊賀の服部半蔵開基のお寺。忍者と関係は?

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 四谷の寺町の中でも、広い境内と広大な墓地を有する西念寺。
 開基は、伊賀者(伊賀忍者)の統率者で有名な服部半蔵正成です。服部半蔵というのは、服部家の当主が代々襲名した名であり、正成は、服部家の二代目当主だそうです。忍者であったのは、一代目だけだったという説もあり、正成が忍者であったのかどうか分かりませんが、伊賀忍者の服部半蔵正成が開基とすると、この西念寺の価値もグッと上がるはずです。この周辺は、江戸時代、服部半蔵配下の伊賀者が多く住んでおり、伊賀者の菩提寺祥山寺があったりと、伊賀者を偲ばせるお寺があります。
 江戸に住んだ伊賀衆が、忍者なのかどうかよく分かりませんが、この辺りには、確かに江戸時代伊賀衆が住み、伊賀衆にまつわる歴史も残っているのです。忍者を偲びながらの四谷寺町散歩はいかがですか?

服部半蔵正成の墓
 そんな浮いた話もいいですが、この西念寺のご由緒を知ると戦国時代の武将の非情への恐怖、服部半蔵の人情を知ることになります。
 戦国時代、徳川家康と奥方の長男として生まれた徳川信康。将来有望である信康は、徳川家と同盟関係にあった織田信長の娘を娶りました。そのような関係にありながら、織田信長は、信康の優秀さへの恐れ、猜疑心からなのか、それとも本当に信康が乱心を起こしたのか、本当のところは今では分かりませんが、とにかく、乱心を理由に、信康の切腹を家康に命じるのです。


 考えられませんね、、、息子の切腹を命じられるなんて。非情にも程があります。このような非常な命令を、家康は同盟関係維持のために、その命を受けるのです。この家康の決断も、それはそれは断腸の思いだったのだろうと思われます。私みたいな一般人には、理解不能です。自分の息子にそのような命令が下ったとしたら、命がけで守ってやる!なんで守ってやらないんだよ!男だろ!と思ってしまいますが、そのようなことをすると、家康の配下の武将、市民の人生、命に大きな影響を与えてしまうことでしょうし、そこまで考えると、そのような決断をせざるを得なかったのでしょうか。自分の息子よりも、民の安全を取ったのでしょうか。
 そして、家康は、この信康の切腹時の介錯を、服部半蔵正成に命じたのです。正成は、そのような非情ができず、役割を果たせなかったのです。
 生きるか死ぬかの戦国時代の政治、人間、情けを象徴する出来事です。この後、正成は世の無常を感じ、信康公の冥福を祈るため仏門に入ったのです。
 

 天正18年(1590)、徳川家康の江戸入府とともに、服部半蔵正成も江戸に入り、麹町清水谷(現在の清水谷公園付近)に庵を建てました。文禄2年(1593)、徳川家康より、堂宇の建立を命じられましたが、果たせず、2年後に亡くなりました。亡くなった後に、西念寺が建立されました。
 寛永11年(1634)、江戸城外外濠新設のため、現在の地に移転しました。
 戦災によって、建物は消失してしまい、昭和36年に再建されました。寺宝とされる、服部半蔵が徳川家康から拝領されたとされる槍も、戦災で焦げている部分もありますが、残されています。


西念寺の地図、アクセス

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