2020年7月12日日曜日

大黒山 経王寺|上野戦争の銃痕残る谷中のお寺

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経王寺 山門
 日暮里駅から御殿坂を通り、谷中銀座商店街に行く途中にある山門の立派なお寺です。



 経王寺の山門には、上野戦争の際の銃痕があります。徳川の大政奉還後、旧幕府の抗戦派が結成した彰義隊と新政府軍が繰り広げた江戸での内戦。今では想像もつきませんが、明治維新のとき、この辺りでは激しい戦闘が繰り広げられました。彰義隊は上野から天王寺に敗走し、この経王寺にも逃げてきたようです。その際に、新政府軍が彰義隊に向けて放った銃弾の痕が、今もこの経王寺の山門には残っているのです。
 江戸の太平の世では、このあたりの日暮里は、風光明媚な日暮の里として親しまれていましたが、明治維新の際は、上野からこの辺りは、激しい内戦の舞台となってしまったのです。
 門前にある荒川区の史跡文化財の碑には、以下のように経王寺の由緒が書かれています。
 『経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の崇敬を広く集めている。
 慶応4年(1868)の上野戦争の時敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。』

 

 また、荒川区のホームページには、以下のような記載があります。
 『明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られているます。旧谷中七福神のひとつです。
 慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り、当時の激しさを今に伝えます。』と記載があります。


 経王寺には、日蓮上人作と言われる大黒天が祀られていますが、谷中七福神の大黒天は、元は経王寺だったようです。


 山門を入ると、まっすぐ伸びる石畳の向こうに本堂があります。本堂の向こうには、高層ビルもなく空が抜けて見えます。江戸時代から変わらない風景なのでしょうか?江戸〜明治の歴史を感じられるお寺です。


 江戸切り絵図「日暮里豊島辺図」には、今と同じ場所に経王院と描かれています。

江戸切り絵図「日暮里豊島辺図」


王寺の地図、アクセス

東京都荒川区西日暮里3−2−6
 

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