江戸時代には、現在の谷中霊園を含む広大な敷地を持った巨大寺院でした。現在の地図で谷中霊園を含んだ敷地で見比べると浅草寺よりも広かったのではないでしょうか。それだけ広い敷地を持つお寺ですから、かなり力も持っていたのではないでしょうか。
江戸切絵図、安政三年版の「日暮里豊島辺図」を見ていただくと、その寺域の広さがわかると思います。そして、天王寺の周囲には、門前丁や、茶屋町が形成されています。今でも、周囲は、谷根千の下町散歩をされる観光客の方が多いですが、江戸時代には、また違った意味で、賑やかな場所だったのではないかと思われます。
この天王寺門前の茶屋町は、「鬼平犯科帳」で「いろは茶屋」という岡場所として登場します。茶屋町とは、本当にお茶屋さんが軒を連ねていることもいうでしょうが、色町のことも言いますから、そのような場所だったのでしょうか。昔は、お寺、神社が人の集まる場所で、おか場所なんかも神社の近くにあったりしましたから、天王寺のような大寺院となりますと、風俗的なお店もあったのでしょう、いずれにしても、江戸時代の天王寺は、寺域も広く、五重塔を有する広大なお寺だったのです。
江戸名所図会には、「谷中 感應寺」と描かれています。感應寺とは天王寺の旧名称です。この絵からも、天王寺の広大さが分かります。一方で、浅草寺と比べると、五重塔はあるものの、浅草寺のような雷門や仁王門のような派手な建築はなさそうで、どちらかというと質実剛健な感があります。これは、今の天王寺にも通ずるものがあり、やはり、派手さはなく、落ち着いた侘び寂びを感じるお寺でありますね。
山門脇に、台東区教育委員会の天王寺に関する由緒が書いてる説明板があります。
「護国山天王寺
日蓮上人はこの地の住人、関長輝の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長輝は草庵を結び、その像を奉安した。ー伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1394ー1429)頃の創建という。『東京府志料』は『天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末寺 此寺ハ本(もと)日蓮宗ニテ長輝山感応寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリケリキ』と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
元禄12年(1699)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和13年7月6日、惜しくも焼失してしまった。
と記されています。富くじ興行が開催されるなど、江戸時代は、やはり大いに賑わっていたのではないでしょうか。
しかし、明治維新後、江戸の巨大寺院の例に漏れず、敷地の多くを接収され、天王寺の場合は、谷中霊園となりました。
「銅造釈迦如来像(台東区有形文化財)
本像については、『武江年表』元禄3年(1690)の項に、『5月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳』とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄3年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衞門と刻まれている。また、同銘文中には『日遼』の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第15世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
昭和8年に設置された基壇背面銘文によれば、本蔵は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会』(天保7年(1836)刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治7年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和8年6月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和13年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
なお、『丈六仏』とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
本作は、明治41年刊『新撰東京名所図会』に『唐銅丈六釈迦』と記され、東京のシンボリックな存在『天王寺大仏』として親しまれていたことが知られる。
平成5年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。」
本堂は、現在の地ではなく、五重塔跡あたりにあり、釈迦如来像も、そのあたりにあったのですね。本堂、五重塔、大仏が近くにあったと考えると、なかなかに迫力があったのではと想像します。
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長輝山(ちょうようざん)感応寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長輝に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改宗したのは天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一条二尺八寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年7月6日放火により焼失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺7寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治3年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。』
放火で焼失してしまったとは本当に勿体無いですね。東京の建物は震災や戦災で焼失してしまったものは多いですが、そのような罹災を免れていたのに、放火とは・・・それも、48歳のおっさんと21歳の女性の不倫精算を図った無理心中のための放火だそうです。おいおい、歴史的建造物をなんだと思っているんだ・・・なんでここで無理心中するんだよ・・・別のところでやってくれ!
この『鬱金桜』は別名『浅黄桜』とも呼ばれており、花の開花はソメイヨシノより2週間程度遅く、4月中旬ごろに浅黄緑色の八重の花が楽しめます。
旧天王寺境内であった谷中霊園内には、江戸時代から浅黄桜が多く植えられていたらしく、二代目歌川広重が描いた『江戸名勝図会 天王寺』の中で『谷中天王寺・・・中略・・・境内に桜木多し、なかんずく浅黄桜の名木あり』と評され、江戸庶民に愛されていました。
浅黄桜は最近ではほとんど見かけられなくなりましたが、第9回谷中花のフェスティバルを機に、この鬱金桜を植樹したものです。
大仏、五重塔、桜・・・往時を見たいものです。また、江戸名勝図会や、江戸切り絵図を見ると、本堂は朱塗りだったのでしょうか。ぜひ、谷中観光振興のために、往時の姿に戻すのはいかがでしょうか!
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