2020年8月10日月曜日

盛林山 大正寺|毎朝お経の聞こえる池之端のお寺

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大正寺

 池之端の忍小通りにある日蓮宗の大正寺。本堂越しに池之端の高層マンションが見えます。高層マンションが見えなければなかなかいい景色なのかなと思いますが、これも東京の景色ですかね。ただ、高層マンション下にあっても、毎朝お経が聞こえてくるのが、下町の生活を感じさせてくれて心地良いですね。
 大正寺は、慶長9年(1604)に創建されたとのことで、江戸開幕翌年ということになります。日通院日亮という人の隠居後の草庵として創建されたそうですが、日通院を調べると宮城県松島しかヒットしないのですが、松島の日通院は臨済宗のようで、大正寺は日蓮宗なので宗派が違うので、松島の日通院ではなさそうです。

江戸切り絵図

 大正寺には、江戸時代に勘定奉行や外国奉行を歴任した川路聖謨(かわじとしあきら)の墓があります。
川路聖謨?知りませんね・・・
大正寺の山門横に台東区教育委員会の説明があります。
『川路聖謨墓

  享和元年(1801)4月25日、豊後国日田(現、大分県、日田市)領代官の部下、内藤喜兵衛の子として生まれ、幕臣川路光房の養子となる。幼名は弥吉または万福。通称を三左衛門・左衛門尉といい、敬斎と号す。文政元年(1818)支配勘定出役に就任し、評定所留役・寺社奉行調役・勘定吟味役等を歴任。ついで佐渡・奈良・大坂町奉行等を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行兼海防掛に任じられた。
  翌嘉永6年、米使ペリーの浦賀、露使プチャーチンの長崎来航により、国防の急務を痛感し、江戸湾品川沖に台場を築く。特に露使とは、応接全権となって交渉に当たり、樺太の北緯50度以南、千島列島エトロフ島のわが国領有を主張した。井伊直弼の大老就任により左遷されるが、文久3年(1863)、外国奉行に起用された。のち病のため退官し、江戸開場直前の明治元年(1868)3月15日に自害した。「長崎日記」「下田日記」「東京日記」など、彼の日記類は貴重な資料である。』
 ロシア相手に千島エトロフの領有権を主張するなど、相当な外交官だったのですね。今の日本は・・・

大正寺の地図、アクセス

東京都台東区池之端2−1−21

 

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