東本願寺門前にあるお寺です。江戸切絵図には、東本願寺の表門をくぐって東側に読本寺と澄教寺の二寺記載がありますが、澄教寺は現在は無いようです。
本堂は、見える範囲では、和様を全く排した鉄筋コンクリート造りのビルになっております。
徳本寺には、佐野善左衛門政言と宋紫石の墓があります。それぞれ、台東区教育委員会の説明板があます。佐野善左衛門政言、宋紫石。知りませんなぁ。
「佐野善左衛門政言墓
佐野善左衛門政言は、鎌倉幕府の御家人で「鉢の木」の逸話で著名な佐野源左衛門當世の子孫と伝えられる。
政言は天明4年(1784)3月24日、殿中桔梗の間で、時の権力者田沼意知(老中田沼意次の子)に刃傷におよんだ。意知は翌日死亡。政言も同年4月3日切腹し、28才で一生を閉じた。幕府の公の記録は『営中において発狂せり』と断定し、私怨とも記された。田沼の政治は積極的に幕府財政を立て直したが、利権との結びつきが強く、収賄など世の指弾をあびていた。また天明年間(1781−1788)には飢饉、大火が続き、物価が高騰して、怨嗟の声が溢れていた。この刃傷事件の翌日から、高値の米価が下落し、老中田沼意次も失脚した。徳本寺の政言の墓には『世直し大明神』と崇め、多数の老若男女が参詣した。この庶民の方が刃傷の真因を鋭く見抜いていたのである。これを当時脚色した歌舞伎の『有職鎌倉山』は有名で、以来、現在まで度々上演されている。」
なるほど、財政立て直し、利権との結びつき・・・政治とは難しいものですね。そして、それに対して、愚直に立ち向かい、切腹・・・本当に、政治とは難しいですね・・・何が正しくて、何が正しくないのか・・・ブランキージェットシティーの歌を思い出します。
「宋紫石墓
宋紫石(1716−1786)は江戸中期の画家。本姓楠本、通称幸八郎、字は雪渓、雪湖、霞亭などと号した。
宝暦年間(1751−63)長崎に遊学し、清朝の画家沈南蘋(しんなんびん)の精緻な写実画をうけついだ熊代熊斐(くましろゆうひ)に学んだ。さらに宋紫岩尾薫陶を受け、名を宋紫石と改め、遂に一家をなし、江戸に帰って、大いに南蘋派を流布させた名匠である。
南蘋派は日本の伝統画に写実の思想を再覚醒せしめた近代日本画壇の源流であるが、その代表が宋紫石で、その流れは子の宋紫山、門人の司馬江漢、諸葛監、酒井抱一、蛎崎波響等に受け継がれる。ほかに南蘋派の写実の甚大な影響を、葛飾北斎、渡辺崋山にあたえている。なおこの写実に西洋画法を加えた面は、司馬江漢によってさらに発展した。
徳本寺の墓には、紫石とその子紫山、紫岡が共に葬られている。またこの寺に、紫石の傑作が多数所蔵されていることは有名である。」
と記されています。
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