2020年11月8日日曜日

平塚神社|平安末期に造られたお城が転じて神社に

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 本郷通り沿いに、緑豊かな参道を有する神社、平塚神社です。参道入口脇には、平塚亭つるおかという和菓子屋さんがあります。

大正初期からある和菓子屋さん「平塚亭つるおか」


 平塚神社のページで、いきなり和菓子屋さんの紹介というのも何なのですが、神社参道に寄り添うようにあるこのレトロな和菓子屋さんに惹かれてしまいました。いろんな角度から記憶を残したいと写真を撮ってしまいました。
 緑に覆われるようにしてして存在するこの和菓子屋さん、写真のアングルによっては、都内とは思えません。森の中の休憩所のようです。


 この和菓子屋さん、実は、とある番組の聖地として、そのファンの人達の間では有名な和菓子屋さんで、聖地巡礼をされる人もいらっしゃるようです。とある番組というのは、聖地といってもアニメではなくて、サスペンスドラマの「浅見光彦シリーズ」なのです。浅見光彦がよく訪れるお店のようです。


 この佇まいですから、ドラマでは絵になりますよね。
 自家製の大福や、焼き団子、おはぎなどを売っています。神社のお参りと、お団子は、セットですよね。食べたかったのですが、今回の散策には、食に関しては他の目的がありましたので、我慢しました。

平塚神社と江戸切絵図


 江戸切り絵図には、この辺りは、とても緑豊かに書かれており、飛鳥山から王子権現社まで、江戸の郊外で風光明媚なところだったことが想像できます。
 平塚神社の周いには高い木々が描かれていますが、これは、今でも、けやきに囲まれた緑豊かな参道として残っています。


江戸名所図会で見る平塚神社の歴史

 平塚神社の境内には、東京都北区教育委員会による平塚城伝承地という説明板があります。どうやら、平塚神社は、城跡でもあるようです。古い城跡が神社となっているのは、珍しいことでなく、都内にも多くあります。
 説明によりますと、平安時代、この辺りには豊島郡を治める郡衙があったそうです。古代の豊島郡は、この辺りの北区、豊島区、新宿区、台東区、文京区、墨田区、葛飾区などだと考えられます。このような地域の政務を司っていたのが、このあたりということになります。今では考えられませんね。
 平安末期に、豊島太郎近義という人が、この地に城館をつくりました。
 平安末期には、奥州の清原氏を討つために後三年の役が起こりましたが、遠征していた源義家が、奥州からの帰りに、この豊島氏の城館に寄ったとされています。その際、源義家は、豊島近義の歓待に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を賜ったそうです。
 その様子が、江戸名所図会に描かれています。


 源義家が亡くなったのち、豊島近義は、城の鎮護のために賜った鎧を城内に埋め、その上に平たい塚を築き、また、源義家兄弟の三人の木像を作り、社を建てて安置したと伝わっています。甲冑埋めた塚が平たい塚なので、平塚と呼ばれるようになったようです。
 鎌倉、室町の時代を通して、豊島氏は、平塚城を居城として、この地域で勢力を持ったとされていますが、文明10年(1478)に、太田道灌により攻められ、落城してしまいました。この様子も、「平塚城戦」として江戸名所図会に描かれています。


 そして、下が江戸時代の平塚神社周辺が描かれた江戸名所図会の「平塚明神社」のページです。奥の「本社」が平塚神社の社殿で、その奥には、「よろひ塚」が描かれています。
 それにしても、平安から室町と、豊島郡の中心地であったのでしょうが、江戸時代には、この田園地帯です。そもそも郡衙という行政の中心地とはいえ、平安時代の武蔵国自体が田舎だったということなのでしょうか。


 手前の道は、「王子道」と書かれております。今の本郷通りです。王子道から本社までの長い山道に木々が描かれている様は、今と変わらないですね。

平塚神社を散策


 このように、平安時代末期の豊島氏の居城から始まった平塚神社。非常に歴史のある神社でありますので、古い物がたくさんあります。


 参道入口に、「平塚大明神」の石碑がありますが、石碑の裏には文政2年と刻まれていますから、1819年につくられたものです。


 参道脇に俳句か何かが刻まれた石碑がありますが、何が刻まれているのか分かりません。


 参道脇は、駐車場になっていますが、その手前に平塚神社の石碑があります。裏に大正8年と刻まれています。


 大鳥居は、文化10年と刻まれていますので、1813年に作られたもので、歴史が感じられます。鳥居をくぐって猫が歩いてきますが、この辺り、猫が多いです。慣れているのか、ニャーと鳴きながら近づいてきて、お尻をすりすりしてきます。


 ここにも猫がいます。ぜんぜん逃げません。


 手水舎の脇に、境内社があります。
 左が石室神社(石神明神)。豊島氏の後、平塚城は、蘓坂兵庫頭秀次という人物が城主となり、平塚明神を変わらず篤く祀ったようです。その秀次が亡くなった際、社の外側に葬られたそうですが、そこに、毎年お米が降ったそうです。そこで、石神明神と崇められるようになったと伝わっています。


 右側には、御料稲荷神社、大門先・元稲荷神社が祀られています。


 こちらも、境内社、菅原天神社(平塚天神社)。



 本殿の前の狛犬。平塚神社にある造形では、獅子山というようです。確かに、普通の狛犬と違い山のようになっていて、左側は、下から這い上がって来る獅子がいます。



 境内の東側には、蝉坂に下る階段があります。この蝉坂という坂の名前は、攻め坂が訛って蝉坂となったそうです。そう、先に書きました、太田道灌が、豊島氏を攻め入った坂から来ていると伝わっています。


平塚神社の地図、アクセス


 

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