玉の井いろは通りにある墨田三丁目交番から路地に入ると、ビルと化した啓運閣があります。
啓運閣の前には、マンションやビルが立ちはだかり、入り口は、ビルの隙間で、境内は猫の額ほどの狭小境内です。境内には、願満稲荷社があります。
境内には、観音様と、水子の石像があります。
啓運閣は、関東大震災後の被害者の供養のために創建されましたが、戦前、玉の井と呼ばれたこのあたりは、銘酒屋が多く軒を連ねる私娼窟でありました。永井荷風は、玉の井をラビラント(迷宮)と呼んで足繁く通い、作家と娼婦の儚い恋物語を「濹東綺譚」として書き上げました 。
ビル本堂の壁面に、啓運閣の縁起と、玉の井との関係が書かれたふやけた紙が掲示してあります。「この地は、大正大震災後、隅田川を隔てた浅草吉原、十二階下(浅草凌雲閣下) 周辺から集団移住された赤提灯「銘酒屋」たる私娼の色街として最盛期には520軒の店が軒を並べ、墨東唯一の歓楽街を形成し、永井荷風の「濹東綺譚」の舞台となって発展した。その脂粉ただよう街なかを雨の日も風の日も・・・・玉の井で死んだ遊女や赤子の霊が毎日供養され玉の井の歴史を今に残している。この色街は戦後進駐軍の慰安所として其の筋より奨励され、保険接客婦と呼ばれたが、昭和33年の売春防止法が施行され遂に遊郭の灯は消えたのである。」と。
下町のこの辺りは、一たび、お店に入れば、お店の人は気さくに話しかけてくれるし、とても人情味あふれ、東京にいるのではなく、地方の田舎にいるような錯覚を覚えてしまいます。ですが、昭和30年代までは、銘酒屋が立ち並ぶ風俗街だったのです。
もう一つ、ビル本堂の壁面に貼られているものがあり、これは、永井荷風の随筆「寺じま記」の一説に、啓運閣と願満稲荷社が書かれていることを紹介している看板です。こちらは、紙でなく看板なのでふやけていませんが、永井荷風が記録した地図を写したものは、字が薄れていて見づらくなっています。
啓運閣の地図、アクセス
東京都墨田区墨田3−6−14
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