2021年3月7日日曜日

玉の井いろは通り商店街①|商店街北の路地裏に残るカフェー建築

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 昭和の作家、永井荷風が足繁く通った街、玉の井。玉の井という地名は、今はないですし、昭和初期には、もう無くなっていた地名であります。漫画家の滝田ゆうが描いた「寺島町綺譚」という漫画がありますが、この辺りは、ずっと寺島村であり、大正期までは、寺島村字玉ノ井や、本玉ノ井がありましたが、昭和初期に寺島村が寺島町になってから、玉ノ井という地名は消失しました。
 この辺りが、玉の井という私娼窟として栄え始めたのは、大正中頃からであり、浅草寺の裏に言問通りが開かれるにあたって、そのあたりにあった銘酒屋(売春酒場)が玉の井に移ってきたのが始まりとされています。関東大震災後には、浅草や亀戸にあった銘酒屋が玉の井に移ってきて、より栄えることになったのです。
 玉ノ井の私娼窟は、時期により現在の東向島の辺りを転々としております。初期の玉ノ井私娼窟は、現在の玉の井いろは通りとは接しておらず、玉の井いろは通りの南にある「平和通り」沿いに開かれたのです。
 その第1期玉ノ井私娼窟が、東にスライドしていって第2期の玉ノ井私娼窟となりますが、この第二期が玉の井いろは通りと接していたようです。そして、戦前には、その後も、玉ノ井私娼窟は転々としますが、後にも先にも、玉の井いろは通りが、玉ノ井私娼窟と接していたのは、この時期だけのようです。
 そして、東京大空襲により、戦前の玉の井私娼窟は完全に焼失してしまいました。
 そのため、戦後、玉の井の私娼窟は、全滅したいろは通りの南側から、いろは通りの北側に移動したり、あとは、京成線で隣駅の曳舟駅の近くにあった商店街の路地裏に鳩の街という赤線地帯を形成しました。ということで、このいろは通りの北側から路地に入ったところには、かつて、私娼窟が、銘酒屋がたくさんあったのです。そして、壊滅してしまった南側と比べ、北側は、戦後に開かれた私娼窟ですから、今でも、当時のカフェー建築が路地裏には残っているのです。


フェー建築の名残り、戦後玉ノ井私娼窟があった路地裏

 そういったことで、玉の井いろは通りの北側には、戦後に開かれた私娼窟、いわゆる赤線時代の名残である、カフェー建築が残されています。もちろん、今では、売春を行っているわけありませんから、民家になっていたり、スナック等の酒場になっている建物もあります。
 ですが、いろは通りの路地裏は、ほぼ下町の民家で、住宅街となっていますので、酒場として利用されているカフェー建築は少ないです。


 住宅街に紛れて、残るカフェー建築。二階ベランダ部の丸い角、窓の意匠。これは、民家ではありませんね。


 このような建物の前に、往時は娼婦が立っていて、「お兄さん・・・」って声をかけていたんでしょう。今では、住宅街なので、全く想像ができません。


 住宅街に突如現れるスナック。住宅街に違和感満載なのですが、もう営業していないような感じもします。


 そのスナックの入り口に「危険物品持込み厳禁」の看板が!
 危険物品を持ち込むとはどういうことなのでしょうか?この辺りは、戦前、戦後は、下町の工業地帯でしたので、その労働者たちに、工場で使う危険なものを持ってこないでねと言っているのでしょうか。狂った奴が、危険物を持ち込もうとしていたら、看板に注意書きがあろうがなかろうが、持ち込んでしまうでしょう。なんなんでしょうか。


 歩いていると、ゴロゴロ、赤線跡らしき建物がでてきます。


 ブレブレになってしまいましたが、「玉の井町会員」のプレート。しかしながら、先ほど述べました通り、玉の井という地名は、昭和初期には無くなっていたはず。いくらなんでも、大正期からある建物とは思えませんが、どういうことなのでしょう?


 路地の路地をさらに進むと・・・


 グリーンのタイルが、カフェーを感じる建物が。入り口のサッシのドアは、後付けでしょうか。そして、そドアに貼られた公明党のポスター。下町は、公明党の縄張りです。


 民家になっていますけど、玄関の瓦屋根、おかしくありません?こんな民家ないですよね?


 看板建築であり、玄関に、アールの付いた庇、その下のタイル。カフェーですね。


 そのカフェー建築の裏には、下町工場。まだ稼働しているのか、工場跡なのか分かりませんが。この辺りは、下町工場が多く、私娼窟と下町工場が隣接していたのでしょうか。


 なんの変哲もない民家のように見えて、ベランダの曲線は、完全にカフェー建築です。


 戸袋の意匠など、やはり普通の民家ではないのでは?


 民家に紛れる看板建築。



 ずいぶん奥まで進んで行くと、何だかまた少し開けた通りに出ます。そこには、昭和12年創業といわれる酒場が!「十一屋」。もう、玉の井が銘酒屋であふれていたラビラントであった頃から、墨田区が下町工場であふれていた頃から、ずっとここにあった酒場なのです。


 十一屋の先には、銭湯跡。隅田湯は、2016年の年末に閉店してしまっています。この辺りの下町工場の労働者たちが、風呂に入りに来ていたのでしょう。その役目も終えてしまったのですね。周辺の新興住宅には、もちろん、お風呂ついてますよね。庶民にとって、銭湯は、今となては贅沢となってしまったんです。


 これは、なんでしょうか。工場跡でしょうか。普通の家には見えません。


 これはカフェー跡ですかね。玄関まで小上がりになっていて、壁面より奥まっていて、庇が瓦風。


 瓦屋根風の庇はカフェーかななんて思っていたら、下の建物は、工場(跡?)でした。素人には工場なのか、カフェーなのか分かりません。





 裏通りみたいなところでも、スナックがあったり焼肉屋があったり。今では、裏通りのようになっていますが、往時は、やはり、工場がたくさんあり、労働者がたくさん住んでいて、そして、すぐそばには、赤線地帯があり、相当賑やかだったのかなと想像されます。


 そして、今にも崩壊しそうなカフェー建築。アールを描いたベランダが、トタンで保護されています。勿体ない、誰か使って下さい。
 玄関には、「玉ノ井町会々員」の銘板が。先ほど、昭和初期に玉ノ井の地名は無くなったと書きましたが、これ、昭和初期のもの?それとも、その後も、玉ノ井町会というものが存続していたのでしょうか。


 新しそうな民家のベランダがアールを描いていますが、どういうことでしょうか。カフェー建築なのでしょうか。その奥のあづま寿司は、昭和34年に江東区で創業して、4年後にここに移転してきたそうです。
 昭和38年というともう、赤線地帯ではなくなっていたんでしょうが、工場はたくさんあったのでしょうか。



 玄関が丸屋根になっているお宅。普通の家でしょうか?


 看板建築の酒場。裏、サイドのトタンの貼り合わせが郷愁を誘います。


 その隣は、これは、カフェー建築ですね。一階部の丸い柱、2階バルコニーのアールがかった角。丸い柱にはタイルが貼られているようですが、全てベージュで塗り尽くされています。



 路地裏の路地裏に、ひっそりと丸い柱にタイルが貼られたカフェー建築が。路地の裏の裏まで、娼家が入り組んでいたことを今に伝える非常に貴重な建物です。この建物の前には、有限会社相川ゴム工業所という工場があります。性食住、三位一体の地域であったことが分かります。



 カフェー建築は、やはり、少しずつ、取り壊されているようです。ご興味のある方は、お早目に見に行かれるべきだと思いますし、ぜひ、保存するという選択肢を考えて欲しいものです。


の井いろは通り商店街の地図、アクセス

東京都墨田区墨田3丁目、東向島5丁目





の井いろは通り商店街 情報交換


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