2021年3月14日日曜日

平和通り(東向島)①|戦前の色街、玉の井の繁華街跡

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東綺譚と平和通り

 永井荷風の「濹東綺譚」の舞台となった玉の井。今は玉の井という地名は無くなり、向島という地名になっていますが、濹東綺譚が執筆された当時の玉の井の私娼街で中心だったのが、今の平和通りです。平和通りと言えど、通りのどこにも平和通りと記した看板などはありません。平和通りなんて、商店街の名前のようですが、ネットで調べても、平和通りという商店街なども出てきません。ですが、平和通りと呼ばれているようです。
 この、平和通り、濹東綺譚では、賑本通として登場します。
 「すると意外にも、其處はもう玉の井の盛場を斜めに貫く繁華な横町の半程で、ごたごた建て連つた商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、或は「オトメ街」或は「賑本通(にぎはひほんどほり)」など書いた灯りがついてゐる。」




 濹東綺譚に描かれる繁華な横町の面影は全くありません。ほぼ住宅街となっています。この通りの北側にある細い路地に入ると、永井荷風の言うところの迷宮(ラビラント)、私娼街があったのです。ラビラントを挟んで、更に北側にある玉ノ井いろは通り(大正通り)の方が、現在は、まだ商店街として成り立っています。
 今では、ラビラントの入り口も、住宅街の入り口でしかありません。ここが、色街で、繁華街だったとは考えられません。
 「大分その邉を歩いた後、わたくしは郵便箱の立つてゐる路地口の煙草屋で、煙草を買ひ、五圓札の剰銭を持つてゐた時である。突然、『降つて来るよ。』と叫びながら、白い上ツ張を着た男が向こう側のおでん屋たしい暖簾のかげに馳け込むのを見た。つゞいて割烹着の女や通りがかりの人がバタバタ馳けだす。・・・・・・
 わたくしは多年の習慣で、傘を持たずにおんを出ることは滅多にない。いくら晴れてゐても入梅中のことなので、其日も無論傘と風呂敷とだけは手にしてゐたから、さして驚きもせず、静にひろげる傘のしたから空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方から、『檀那、そこまで入れてつてよ。』といひさま、傘の下に眞白な首を突込んだ女がある。」
 これが、濹東綺譚の主人公と、ヒロインの娼婦、お雪が出会った場面です。


 その出会った場所は、上の写真のあたりでは無いかと思います。今では郵便箱もないですし、煙草屋もありませんし、おでん屋もありません。こんな下町住宅街になっている通りが色街で繁華街だったなんて、想像すらできません。
 「ポストの立つてゐる賑な小道も呉服屋のあるあたりを明るい絶頂にして、そこから先は次第にさむしく、米屋、八百屋、蒲鉾屋などが目に立つて、遂に材木屋の材木が立掛てあるあたりまでクルト、幾度となく来馴れたわたくしの歩みは、意識を待たず、すぐさま自轉車預かり所と金物屋との間の路地口に向けられるのである。
 この路地の中にはすぐ伏見稲の汚れた幟が見えるが、素見ぞめきの客は気がつかないらしく、人の出入りは他の路地口に比べると至つて少ない。これを幸に、わたくしはいつも此路地口から忍び入り、重通の家の裏手に無花果の茂つてゐるのと、溝際の作に葡萄の絡んでゐるのを、あたりに似合はぬ風景と見返りながら、お雪の窓口を覗く事にしてゐるのである。」


 この路地が、主人公の作家(永井荷風)が、お雪の娼家に行く際に入っていった路地だと思われます。ただ、この辺は、東京大空襲で、焼失していますから、その当時のままの路地が残っているのかは分かりません。

和通り路地裏の迷宮(ラビラント)跡

 路地裏に入ってみると、細く曲がりくねった道となり、永井荷風の言われるような迷宮(ラビラント)を想い起こさせます。


 この路地に、銘酒屋がたくさんあったのだと思われます。もちろん、今は、住宅しかありません。ここが色街だったなんて・・・風俗街だったなんて・・・想像できません。閑静な住宅地です。
 

 この辺りは、濹東綺譚ではラビラントの二部と書かれています。玉の井の私娼街は、平和通り(賑本通り)を中心として、複数期に分けて発展していったようです。



 多分、この辺りに、お雪の娼家があったと思われます。


 玉の井といえば、永井荷風ですが、永井荷風意外にも、多くの文学者が訪れています。太宰治、檀一雄など、無頼派と呼ばれる作家や、彫刻家としても名高い高村光太郎、作詞家としても名高いサトウハチローなどなど。


 作家などと言うものは、ロクデナシが多いですね。国語の教科書なんかにも載りますから、有り難く捉えてしまいますが、素行に関しては、ロクデナシと言うか、普通の男とさして変わりない、いや、頭が良い分、逆に無茶苦茶かもしれない。


 上の写真の通りが、永井荷風の言うところの玉の井の一部と二部を分ける通りです。



 古そうな建物がありますが、東京大空襲で、戦前の建物は焼失してますので、古そうな建物があっても、戦後に建てられたものだと思われます。そして、戦後の玉の井の色街、赤線は、玉ノ井いろは通りの北側に移動しましたので、戦後のこのあたりは、もう私娼街では無くなっていたと思われます。
 以下の写真は、玉の井の一部があった辺りになります。




 細い路地があったり、まさにラビラントな路地が残されているのです。


 昭和レトロな下町アパートや住宅も残っていて、散策しているといろいろな発見があり、楽しめます。



 下町住宅街なのですが、看板建築のような建物も残っています。戦前は色街だったのですが、戦後は、下町住宅街となり、商店街となった通りもあったのでしょうか。




 戦前、この辺りに銘酒屋があった頃は、娼婦を求めて男性がそぞろ歩いていたことになります。いやぁ、想像できませんね。どのような状態だったのか見てみたいです。


 この辺りも、看板建築が並んでいます。下のお店は、クリーニング店として現役のようです。看板建築のクリーニング店。いつから営業しているのでしょう。

和通り(東向島)の地図、アクセス

東京都墨田区東向島5丁目



平和通り(東向島)①|戦前の色街、玉の井繁華街跡

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