2022年2月6日日曜日

鳩の街通り商店街|路地裏には戦後の赤線地帯の名残り

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 東武伊勢崎線、曳舟駅の西口。路地裏のような駅前の路地を西へ歩くと水戸街道に出ます。水戸街道の向こう側に、これまた路地裏のような細い通りがあるのですがこれが鳩の街商店街です。
 道幅は5mにも満たない細い通りは、戦前からのものです。この狭い路地に商店街ができたのは、昭和3年(1928)で、当時は寺島商栄会という商店街でした。空襲に遭うこともなく、戦後もそのまま商店街が残ったのです。名前は変われど、100年近くも存続しているという歴史には恐れ入るものがあります。
 もともと、地元の生活に根ざした商店街だったのでしょうが、戦後、大きく様相を変えることになります。鳩の街から1.5km先に、永井荷風の「濹東綺譚」で有名な玉の井の銘酒屋街(私娼街)がありました。玉の井は空襲で焼失してしまったため、玉の井の一部のお店が、鳩の街に流れてきて、アメリカ兵相手に商売を始めたのです。こうして、商店街の路地裏に赤線地帯が形成されることになりました。
 路地裏の赤線地帯目がけて人が集まり、商店街もずいぶん栄えたそうです。赤線地帯は、平和の象徴、鳩の街と呼ばれ、ついには、商店街も鳩の街商栄会となったのです。この鳩の街では、木の実ナナさんが生まれ育った所として有名ですし、鳩の街を題材として、吉行淳之介や、永井荷風などが文学作品として残しています。
 しかしながら、昭和33年(1958)には、売春防止法により、赤線が廃止されました。赤線地帯の鳩の街と共に戦後栄えた商店街は、赤線の廃止後、衰えていくことになります。
 また、水戸街道に都電向島線が通っていて、鳩の街商店街の入り口に「向島須崎町」という駅があったのだと思います。都電も廃線になったことも、鳩の街商店街に大きな影響を与えたようです。鳩の街商店街のサイトに書かれていますが、昭和30〜40年代の最盛期を過ぎると、廃業する店舗が出始め、店舗が住宅に置き換わっていったそうです。
 とは言え、狭い路地には古い商店建築が残っていたり、まだまだ営業を続けている商店などは昭和の風情を残していて、今尚、魅力的な商店街であることは間違い無いです。


 水戸街道からの入り口にある薬局と、インド料理店が入るお店。上を見ると立派な瓦屋根の建物。入り口ですし、もともと何か立派な商店があったのでしょうか。



 現在は、住宅となっていそうですが、以前は、商店長屋だったのではないでしょうか。




 おでん種の専門店があるのが、昭和下町風情を感じさせてくれます。





 立派な銅板建築。洋傘製造卸、まだ営業しているのでしょうか。傘なんか、今は使い捨ての時代になってしまいましたが、昔は、良い傘を修理しながら大事に使っていたのですけどね。そんな時代が偲ばれるお店です。




 上は、こぐまというリノベ系のカフェです。この建物は、昭和2年(1927)に建てられた薬局だそうです!もう100年になります!


 空き家になっている商店も目立ちます・・・



 喫茶千輪(ちりん)こちらも、古い建築を利用したカフェ。



 戦後の十年程度は、赤線地帯、鳩の街ととも賑わったのでしょうが、現存する商店は、地元の人たちの生活に密着したようなお店ばかりです。赤線地帯と共に栄えたのであれば、飲食店が沢山あるのではと勝手に想像していましたが、そんなことはありませんでした。
 ただ都市徘徊blogには、1990年代までには、アーケード飲み屋がいがあったと記されています。鳩の街商店街の近くに、このようなアーケード飲み屋街があったのだそうです。もう、そんなアーケードがあったなんて全く想像もできません。




 古い化粧品店。今は、墨亭という寄席などが行われる場所となっているようです。


 鳩の街商店街の北の外れには、大きな酒屋があります。もう営業はしていようですが、住居も兼ねているのでしょうが、とても大きな酒屋です。往時はずいぶん儲かったのでしょうね。


の街(赤線跡)、商店街の東の路地裏へ

 鳩の街商店街の東の路地裏。そこが、戦後の赤線跡、鳩の街です。この路地裏には、他地域の赤線跡と同じように、カフェー建築が残っています。 が、どんどん取り壊されているのも同じでしょう。この街でも、あちらこちらで工事が行われていました。


 戦後の歴史的建造物は、路地裏にひっそりと佇みながら、ある時をもって取り壊されるのです。


 路地裏にある中華料理店の遺構。商店街には、飲食店が少なかったのですが、こんな路地裏に中華料理店の遺構が。赤線時代からあったとしたら、ロマンが湧きますね。


 本屋の隣は大衆酒場で、自転車が四、五台、それぞれ勝手な方向をむいて置かれてある。その酒場の横に、小路が口をひらいている。
 それは、極くありふれた露地の入り口である。しかし、大通りからそこへ足を踏み入れたとき、人々はまるで異なった空気につつまれてしまう。「原色の街」〜吉行淳之介


 円柱の柱は、カフェー建築ですね。
 細い路は枝をはやしたり先が岐れたりしながら続いていて、その両側には、どぎつい色あくどい色が氾濫している。ハート型に曲げられたネオン管のなかでは、赤いネオンがふるえている。洋風の家の入り口には、ピンク色の布が垂れていて、その前に唇と杖の真赤な女が幾人も佇んでいる。「原色の街」〜吉行淳之介


 曲線を描く壁面、カフェー建築です。今では、こんなに色褪せた路地裏に、春を売る女性が集まった街があったなんて。
人目を惹くようにそれぞれの思案を凝らせた衣装にくるまって、道行く人に、よく光る練り上げた視線を投げている。鼻にかかった、甘い声が忍びよっていく。なかには、正面から抱きついて脂肪のたまった腹部をすりよせながら、耳もとで露骨な言葉をささやく女もある。「原色の街」〜吉行淳之介


 こんな煤けた路地裏が、戦後の一時期には、煌びやかな通りだったなんて想像もできません。


 真赤に塗られた唇が、目まぐるしく上下に動いて、白い歯がネオンの灯りを蛍光色に反射する。肩まであらわな腕が伸びて、ぶらぶら歩いてゆく男の腕を、上衣を、帽子を捉えようとする。男は、無意味な声を発したり、つまらむ冗談を言ったりしながら、身をしりぞけ、くびうしろに引いて相手の姿をたしかめようとする。「原色の街」〜吉行淳之介


 建物の下部のほんの一部にタイル。このタイルは、カフェー建築のものではないでしょうか。なぜ、こんな一部に残しているのでしょうか。その建物には、青いタイルの柱も残されています。この建物のある通りが、鳩の街銀座通りと呼ばれた通りで、娼家が軒を連ねた通りです。



 カフェー建築ではありませんが、木造の劇シブな建物。これぞ、昭和下町の名残。
 この赤線あった路地裏に、木の実ナナさんが生まれ育ったアパートがあったようです。その頃は、この下町で、隣近所の赤の他人がが家族のように暮らしていたのだそうです。
 次々と昔の遺構が取り壊されて、住む人も移り変わり、私も知らない、でもノスタルジーを覚える下町の情景は無くなっていくのです。


 青いトタンの物件。この青さ、美しくもあります。こんな路地裏にも、看板建築があります。こんな路地裏に、夥しい娼家と商店が立ち並んでいたのでしょうか。その先に見えるスカイツリーが、若々しくて、純真無垢に見えます。


 このアパートは、どうなんでしょう。完全な立方体の建物。玄関二つ。不思議な造りだなと思います。


 この建物も、年季の入った建物ですね。アパートだったのか、それとも町工場かなっかだったのでしょうか。


店街の西の路地裏へ


 鳩の街商店街の西側の路地も、趣に溢れています。こちら側にも赤線地帯があったのかは分かりません。


 昔ながらの造りの質屋があります。これ、もう歴史的建築物と言っても過言では無いのでしょうか。




 酒屋の遺構でしょうか。こちら側の路地も、かなり商店があったようです。今では、商店街の本通りですら寂れてしまっているのですが、こんな裏通りまで商店があったなんて、とても賑やかな街だったのでしょう。



 鳩の街通り商店街のすぐ南には、三とも通りという名のついた通りがあります。ここは、明治以降、向島の花街として栄えたところです。赤線の町のすぐ近くに芸者の町があったのです。


の街通り商店街の地図、アクセス

東京都墨田区東向島1丁目、5丁目
 

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