2021年2月14日日曜日

補陀落山 観音院 養福寺|歌人の石碑が多く残る、日ぐらしの里の寺院

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 日暮里の諏訪台通りにあるお寺です。
 創建年代は、不詳のようですが、江戸中期に湯島にある円満寺の木食孝高上人によって中興されたとされています。

養福寺の仁王門

 養福寺で、ひときわ目を引くのが、仁王門です。谷中界隈のお寺では、一番派手な建築なのではないでしょうか。


 この仁王門は、宝永年間(1704−1711)の建立と伝っており、中興後に建てられたのでしょう。


 仁王像の胎内から宝永4年(1707)の銘札が発見されているので、仁王門も、やはりその時代のものだと推察されています。
 養福寺の本堂は戦災で焼けてしまいましたが、この仁王門は、焼失を免れたのです。浅草寺の仁王門や、仁王像も素晴らしいですが、養福寺の仁王門は、巨大さでは劣るものの、江戸時代建造のものが残っているという点で、非常に価値のあるものだと思います。


 仁王門の裏には、多聞天像、広目天像が置かれていますが、私が訪れた際は、すっからかんでした。博覧会等で持ち出される場合もあるようですので、この時もそうだったのかもしれません。

養福寺と文人の記憶

 江戸時代、江戸郊外の名所として「日ぐらしの里」と呼ばれた日暮里。そのような日暮里には、文人墨客が訪れ、足跡を残しており、この養福寺にも、日ぐらしの里と呼ばれていた時代の文人の足跡が残っています。


 まず、山門手前には、「梅翁花尊碑」があります。
 梅翁花尊とは、西山宗因という江戸前期の俳人です。江戸時代に流行した談林派という俳諧の流派の祖といわれている有名な人のようです。
 境内には、その談林派歴代の句碑である、「梅翁花尊碑」「雪の碑」「月の碑」があります。写真は撮り忘れました・・・寛政4年(1792)に建立されたそうです。真偽は分かりませんが、「梅翁花尊碑」は、西山宗因の墓ともいわれていたそうです。


 こちらは、「柏山人碑」。江戸時代後期の漢詩人、柏木如亭の碑です。漂白の詩人として生涯を過ごし亡くなった後、友人や、弟子たちが、文政3年(1820)に建てた石碑です。


 そして、「自堕落先生の墓」。自堕落先生・・とは・・?
 自堕落先生とは、元禄生まれの山崎北華という俳人です。武家出身ですが、浪人し、医者となったようです。自堕落先生の他、不量軒、無思庵、捨楽斎などと名乗っていたようです。
 山崎北華は、そのような変な名前にも負けないくらい奇行も多かったようで、この養福寺の「自堕落先生の墓」は、山崎北華が、元文4年(1749)に、死んだと偽って葬儀を行い、自分で立てた墓なのです。荒川区の案内板には、「奇人で知られた・・・」と書かれていますが、まさに奇人ですね。
 日ぐらしの里の日暮里、谷中には、養福寺に限らず、有名な人の歌碑が多くあります。江戸時代には、このような有名人の歌碑を目当てに訪れる人も多かったようです。

境内の石仏など



 境内入ってすぐ、六地蔵や、如意輪観音の石像などが並んでいます。


 庚申塔など。


 三界萬霊塔。


 石仏ではありませんが、手水鉢。側面に元禄の文字が見えます。年数は削れてよく見えませんが、元禄からある手水鉢のようです。

本堂など


 先にも書きましたが、江戸時代に建てられた本堂は戦争で焼失していますので、現在の本堂は、戦後建てられてものになります。


 養福寺では、大晦日に除夜の鐘をついたり、その他、イベントが行われたりしているようです。コロナ禍の2020年の大晦日は中止でしたが。


 江戸名所図会、江戸切絵図で見る養福寺


 江戸名所図会には、日暮里総図の其二に描かれています。日暮里総図は、今の諏訪台通りを中心に描かれています。
 中央あたりには、仁王門が描かれています。右端には、梅翁塚が描かれており、先にか書きました「梅翁花尊碑」ではなかろうかと思われます。塚と書かれているあたり、歌碑ではなくて、西山宗因の墓と思われていたことと関係がありそうですね。
 境内の左側に、鐘楼らしき絵が書かれていますが、現在の鐘楼は、この絵の中で言うと、中央あたりにあるはずですから、現在の鐘楼の位置は、江戸時代の位置とは違うようです。


 江戸切絵図に、養福寺という文字は書かれていません。
 ただ、養福寺が、木食義高上人に中興された際、梅野天満宮天満宮礼拝場を建てたといわれています。その後、廃れたそうですが、この江戸切絵図の「梅ノ天神」と書かれているところが、養福寺でしょうか。

養福寺の地図、アクセス

東京都荒川区西日暮里3−3−8
 

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