江戸時代に、羽田を干拓した鈴木家の土地に建てられた祠が始まりです。
低湿地であった現在の羽田空港あたりを干拓し、新田開発したのが鈴木弥五右衛門です。羽田空港となった今では田んぼはありませんが、開発された新田は、鈴木新田と呼ばれていました。
江戸時代の羽田は、上に描かれているような低湿地だったのです。ここに今は、羽田空港があるんです。考えられないですね。
こんな所を干拓して新田を作ったわけですので、高波が生じた時は、堤防に穴が開き海水が浸水する被害が多かったそうです。そのような高波被害から守るために、お稲荷さんをお祀りしたそうです。それ以来、堤防に穴が開くことがなくなったので、穴守稲荷と呼ばれるようになったそうです。
穴守稲荷は、文字通り、穴を守るということで、女性を性病から守るとの俗説も生まれ、遊女の信仰も集めたようです。
緑の参道をくぐり抜けると、社殿があります。
明治以降の穴守稲荷神社
江戸時代は、小さな祠でしたが、明治10年(1877)に、羽田の人々により社殿が建てられました。この辺りは海水浴場も多くあり、その上、近くで温泉が湧いたことにより、周辺が賑わい始めたそうです。競馬場や遊園地などもでき、東京のレジャースポットの一つとしてかなり賑わったようです。旅館や芸者の置屋なども近くにあったようです。
戦後の穴守稲荷神社
羽田空港の場所にあった穴守稲荷ですが、終戦後、鈴木新田などがあった場所は、GHQにより接収されることになりました。昭和20年(1945)9月、住民に48時間以内に退去するように命令が下りました。そして、創建の地の穴守稲荷は破壊されました。
創建当時の穴守稲荷は破壊されたのですが、穴守稲荷の大鳥居は、破壊しようとしたところ、工事中に作業員が怪我をしたり、工事責任者が病死したりしたため、「穴守さまのたたり」とされ、また結局撤去しようとしても撤去できないため、GHQも諦め、大鳥居だけ創建の地に残されました。
ですが、結局、大鳥居は平成11年(1999)に移設され、現在の地にあります。扁額も、もとは「穴守神社」と書かれていたのですが、移設後に「平和」となりました。平和・・・陳腐ですね。
強制退去の後、一旦、羽田神社に合祀されましたが、昭和23年(1948)には、現在の地に仮社殿を造り、移転しました。昭和39年(1964)には、現在の社殿が完成しました。
社殿の脇には、必勝稲荷、開運稲荷、出世稲荷、繁栄稲荷など、恥ずかしくなるほどどストレートなお稲荷さんがあります。
千本鳥居
また、社殿の脇には、千本鳥居があります。
穴守稲荷では、願い事があると鳥居を寄進したそうで、戦前の創建の地にあった当時の穴守稲荷には、数万本の鳥居があったそうです。千本鳥居と言いますが、今となっては数万本どころか、千本もありません。
数は少なくとも、朱色の鳥居の並ぶ様は美しいですね。
奥之宮
千本鳥居の奥には奥之宮があります。
ミニ鳥居がたくさん奉納されています。
この奥之宮には、御神砂という砂があります。この砂を持ち帰るとご利益があるそうです。
言い伝えによると、羽田浦の漁師の老翁が漁から帰って来ると、魚籠には湿った砂が残ってるだけで釣ったはずの魚がいなくなってしまう日々が続いたそうです。村人たちに相談したところ、狐の仕業ということになり、穴守稲荷を囲んで狐を捕らえたそうです。ですが、老翁は、狐をゆるし逃したそうです。それから、老翁は大量に恵まれ、そして魚籠には少しの砂が、いつも入っており、その砂を庭に撒くと千客万来し、この老翁は富を得たそうです。そのような言い伝えに由来する御神砂です。
稲荷山
そして、奥之宮のさらに奥には、築山の稲荷山があります。この稲荷山は、令和2年(2020)に完成していますが、実は、戦前の穴守稲荷にも築山の稲荷山があったのです。穴守稲荷の戦前の姿が再現された感じでしょうか。
稲荷山下には、狐塚と、福徳稲荷があります。
何だか乱雑に置かれているようですが、このミニ鳥居や、狐さんたち。これも奉納されているものなのでしょうか。
中腹にお稲荷さんが整然と並んでいます。築山稲荷、幸稲荷、末廣稲荷、航空稲荷。やはり、羽田ですから、航空稲荷があるのですね。
稲荷山の頂には、穴守稲荷上社、御嶽神社があります。
頂からの眺めは、ビルだらけで、決して良い眺めだとは言えません。
稲荷山も再現され、穴守稲荷は、戦前の神社テーマパーク的な要素が復活して観光としても楽しめる神社となってきています。
ご祭神
豊受姫命(とようけひめのみこと)
例大祭
11月3日
穴守稲荷神社の地図、アクセス
東京都大田区羽田5−2−7
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