2021年11月6日土曜日

いろは商店街|山谷ドヤ街めぐり②大正時代からある下町商店街

 ホーム東京の商店街いろは商店街


 台東区日本堤の吉野通り。吉野通りの東西は、日本三代ドヤ街の一つ山谷であります。日本の成長を支えた日雇い労働者が暮らした、稼いだ時には泊まれた簡易宿泊所(ドヤ)が集積した街でした。
 吉野通りからいろは商店街に入るところには、日本堤交番があるのですが、この交番はかつて、マンモス交番と呼ばれ、山谷の日雇い労働者が襲撃したこともある交番なのです。昭和35年のことですが、その当時は、それだけ、この地域は危険な街だったのです。
 街だったのです、、そう、簡易宿泊所は、急速に減少しており、ドヤ街と言われ、一般の人は近づけないと言われていた山谷は、その姿を変えようとしているのです。今では、安宿目当てに、海外の旅行者が宿泊する街に変貌しようとしているのです。


 日雇い労働をしていた層の若い世代は、今どのような仕事をしているのでしょうか。という社会問題は、このブログでは扱わないのですが、山谷のドヤ街は、急速に高齢化しているようです。このいろは商店街は、山谷という地にありますから、ドヤで暮らす日雇い労働者とともに歩んできたのでしょう。
 ドヤ街として活気があった頃は、このいろは商店街も賑わっていたのかもしれませんが、なんだか人通りが少なく、寂れた感じです。ここ商店街?って感じです。


 上の青い建物は、山谷労働者福祉会館。1990年に設立されたようです。もうその当時から、山谷地区は高齢化に瀕していたようで、高齢化した日雇い労働者を救うために設立されたようです。そして、この山谷労働者福祉会館から西側に、2018年、アーケードがあったのです。
 いろは商店街のアーケードは、昭和51年(1976)に設置されたそうです。老朽化し、維持費負担も大きかったことから撤去されたようです。設置された昭和50年代と比べるとやはり、寂れてしまったのでしょう。
 いろは商店街の歴史は古く、大正8年(1919)に商店会が結成され、大正11年(1922)に、いろは会が結成されたようです。そして、大正8年に商店会が結成される前から、陸羽街道(現在の吉野街道)から、日本堤(現在の土手通り)に抜ける通りに夜店の出店が許可されたそうですが、それが現在のいろは商店街の通りのようです。



 商店街というと、奥様方向けのレディースショップがよくありますが、いろは商店街は、やはりメンズウェア中心であります。上の「メンズショップ ネギシ」の2階のには、バンビみたいな絵が掲げられていますが、この日雇い労働者の街のメンズウェアショップに、子供向けのような絵が掲げられているのが、妙に悲しくなりました。日雇い労働者に子供いないじゃん・・・


 休日に散歩したからか、閉まっている店が多いのと、メンズウェアショップの多いこと。


 あとは、酒場も多いですね。そもそもは日雇い労働者向けの酒場だったのでしょう。
 追分に入ってみましたが、雑然としています。飲めれば良いという状況というか、出立ちが、酒場の本物を感じます。飲めればいいんですよ。形にこだわらず。形にこだわらない姿勢が、立派な形になっています。きれいではありません。きれいな必要も全くないのです。飲めれば良いのです。いらっしゃるお客さんも、いろいろ考えさせられる人たちで溢れいています。
 とは言え、つまみはおいしかったような気がします。というか忘れました。


 もう、商店街としては崩壊しているのかもしれません。人が歩いていないです。


 商店街には、必ずお茶屋さんがあります。私、お茶なくても生活できますが、日本人にとっては無くてはならないものなのでしょう。というか、そういうものだったのかもしれません。
 どうしようもない下町から見るスカイツリーは、もの悲しい。おしゃれでもないですし、きれいでもないく、特に、この昼間のスカイツリーは、鋼色が美しくなく、暗さを増長しているような気がします。



 人がいないことは変わりないのですが、いろは商店街を半分くらい西へ歩くと、次第にお店の業態が変わってきます。
 呉服店だったり、化粧品店だったり、日雇い労働者の街の商店街から、一般住民の商店街と変わっていくような気がします。



 それにしても全くシャッターが開いていません。人もいません。それはおいておいて、いろは商店街の、西半分は、建物がモダンです。アーケードが無くなった今、この景観、昭和の戦前戦後の景観に、戻ったのではないでしょうか。


 ディスカウント・百貨センター、需要があったのはいつの時代なのでしょうか。



 レトロな建物の隙間から見えるスカイツリーは、やはり、不穏な風景、廃墟と化した未来都市的風景。



 鰹節と掲げていますので、鰹節の専門店だったようで、大正11年という、いろは商店会が結成された年に創業したお店です。看板建築に、鰹節近江屋の金文字が年代を感じます。
 鰹節の専門店があるなんて、商店街には、様々な機能が組み込まれていたんですね。


 それだけ、当時の商店街は、人々の生活に欠かせない場所だったのでしょうが、今は、過去の思い出。本当に人がいません。


 この小林屋も、堂々とした看板建築。金物屋さんだったようです。



 またもや、下町のレトロな建物の隙間から垣間見える不穏なスカイツリー。



 庇に書いてある通りですが、創業、大正7年の平乃屋。先ほど書きましたが、この通りに商店会が結成される前からあったことになります。その頃は、この通りには夜店がたくさんでていたのでしょう。


 やがて、いろは商店街は、土手通りに突き当たります。突き当たったところには、大林という酒場があります。こちらの酒場、下町の名酒場として名の通った酒場なのですが、酔っ払いは入れません。追い出されてしまいます。先ほど、追分で飲んでしまってほろ酔いではあるのですが、バレなければラッキーとばかりに入ってみました。しんと静まり返った酒場。数名お客さんはいますが、誰も話をせず、行儀良く酒を飲んでいます。親父に、ギロっと睨まれましたが、何も言われなかったので、すすすっと中に入っていくと、「酒飲んでるでしょ!」と言われ・・・ごまかせませんでした・・・


 土手通りに出て、その西の奥は吉原になります。


ろは商店街の地図、アクセス

東京都台東区日本堤1丁目

     


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