法乗院のサイトによれば、寛永6年(1629)、深川富吉町に創建されたとのことです。深川冨吉町とは、現在の江東区永代1丁目付近で、永代橋の東側あたりに冨吉町という町がありました。このあたりは、深川猟師町と呼ばれ、漁師が多く住んでいた町です。 寛永18年(1641)に、深川冨吉町から東の現在の地に移りました。なぜ、移ったのかはよく分かりません。 切り絵図上では、法乗院の西に、富岡橋があります。この富岡橋、閻魔堂橋と呼ばれていたのですが、歌舞伎の演目「梅雨小袖昔八丈」、通称「髪結新三」の有名な場面「深川閻魔堂橋の場」の場所であります。江戸の下町、深川、江戸庶民の町でありますから、こうした世話物という、江戸町人の世相風俗を背景とした話の舞台になったのでしょう。
法乗院境内の北側にあるお堂が、ゑんま堂です。ゑんま堂は、宝暦10年(1760)に建立されたそうですが、現在の閻魔像は、平成元年の建立です。閻魔坐像では、日本最大だそうです。 法乗院のサイトには、江戸三えんまの一つ、深川ゑんま堂として親しまれてきたと書かれています。ただ、一般的に江戸三大閻魔というと、新宿の太宗寺、巣鴨の善養寺、杉並の華徳院とされているのですが、なんでですかね?
閻魔像の前にある賽銭箱は、願い事に多じて、入れる穴が分かれています。
本堂の一階には、天明4年(1784)に宋庵という絵師が描いた「地獄・極楽図」を見ることができます。
また、歌舞伎の話になりますが、江戸中期の歌舞伎役者、初代市川八百蔵の墓があります。その市川八百蔵のはまり役と言われたのが曽我五郎。鎌倉時代の父の敵討ちを題材にした演目ですが、その曽我五郎の足跡が残る石が、法乗院の境内に残されています。石に足跡?しかも鎌倉時代の?疑問はつのりますが、石にくっきりと足跡があるのです。
法乗院(深川ゑんま堂)の地図、アクセス
東京都江東区深川2−16−3
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