東京の路地、住宅街を歩いていると、よく小さなお稲荷さんに出くわします。東京の中央部にある小さなお稲荷さんのほとんどは、大名屋敷や旗本屋敷にあった邸内社の名残であります。江戸に屋敷を拝領した大名や旗本が、その屋敷内に国元の神社の分社を勧請したのが、邸内社ですが、武家屋敷はとうの昔になくなっているのに、邸内社だけがそのままその場所に残っているのです。邸内社をひもとけば、その土地の歴史が少し見えてきます。
森下を散策していて、たまたま見つけた大久保稲荷神社。江東区森下の住宅街のはざまにあります。こんなに小さなお稲荷さん、このお稲荷さんにお参りしようとして訪ねてくる人は、いないでしょう。
調べてみると、この大久保稲荷神社も、邸内社のようで、江戸切絵図の「本所深川絵図」に大久保豊後守という屋敷が記されています。名前もそのまま、大久保屋敷にあったお稲荷さんが残っているのです。大久保屋敷は、北、東側は、五間堀に接しています。現在では、五間堀は残っていませんが、大久保稲荷神社の西に、五間堀の跡地に造られた五間堀公園があり、まさに、本所深川絵図の描かれた時代の配置が見てとれるのです。
今はなき、大久保屋敷ですが、幕末の動乱期にちょっと記録が残っています。
幕府より、甲州の鎮圧を命じられた新撰組。当時、弱体化していた新撰組は、被差別部落民などで兵力を補強し、甲陽鎮撫隊と名乗り甲州へ向かうのですが、あっけなく官軍に壊滅されてしまいます。敗走した甲陽鎮撫隊が、江戸に帰って落ち合ったのが、この大久保屋敷だったのです。それだけですが。
この当時の大久保家の当主、大久保忠恕は、長崎奉行、京都町奉行、幕府の陸軍並(陸軍将校)などを勤め、要職を歴任した人だったようです。
大久保稲荷神社の地図、アクセス
東京都江東区森下2−31
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