北千住駅からは、15分くらい歩いたところなのですが、このあたりは商店街が集中しています。というか、北千住周辺は、商店街が密集しているのです。そして、駅周辺以外の商店街は、衰退の一途を辿っているように見えますが。
北千住駅から離れたこのあたりに商店街が集中しているのは、このいろは商店街の東の入り口の前に、都電北千住線の千住四丁目という駅があり、そして、いろは通り商店街を東へ歩いて行った先には、大正時代につくられた千住遊郭が、昭和33年の売春防止法施行まで、歓楽街であったからなのでしょう。
路面電車の停車場の目の前ですから、かつてはかなり賑わったのでしょう。そして、その先に歓楽街があったのですから、夜な夜な人が集まったのでしょう。
今は、面影だけ。
東側から入ると、横文字の店名の飲食店。この先には、かなり先ですが、帝京科学大学があるので、学生向けの飲食店街になっているのかと思いきや、そんなことはなく。
その先は、寂れた商店街。これらのお店すら、ネットで調べても口コミも何も出てこない。
足立区商店街振興組合連合会の千住いろは通りの紹介によると、設立されたのは、昭和24年(1949)4月だそうで、いろは通りの東にあるニコニコ商店街と同じ年に設立されたようです。当時は、さぞ賑やかだったのでしょう。
並ぶ街灯と看板建築。そこに人はいない。
というか、よく考えると、休日の10時前から散策していたので、そりゃ人いないか。でも、人がいないというか、お店がない。
ただ、先の足立区商店街振興会のサイトによると、17店舗はお店があるようです。
商店街というか、街灯が並ぶ道。
路地裏に、風格のある建物を発見。のれんに野小 師具表。ああ、昔の書き方。表具師 小野、屏風や掛け軸などの製作、修繕をする職人さん。下町ならではって感じです。ここ、テレビでも紹介されたりしています。
いろは商店街というと、玉の井いろは商店街、吉原ソープ街前のいろは商店街、古くは谷中のいろは茶屋など、どうも歓楽街付近に多いような気がするのですが、「いろは」って何かそっちの意味があるの?
調べてみると、江戸時代、谷中の岡場所(私娼窟)のお店の数が47軒あったからとか、勘定が48文だったからとか、いろいろ説があるようですが、谷中の岡場所がそう呼ばれたのが語源なんですかね。そう考えると、そのような地域に「いろは」と使うということは、そんな地域ですよと公言しているようなものなのか。何だか気恥ずかしい気もするのですが、商店街が成立した時期には、そんな地域がったから、別に気恥ずかしくもないか。
風格の看板。食料品店とか、本当に地元の生活に根ざした商店街だったんですね。
何事もなく、散策終了。もう少し遅い時間だったら、お店も開いていて、違う側面がみれたのかもしれない。
千住いろは通り商店街の地図、アクセス
東京都足立区千住大川町、千住寿町
千住いろは通り商店街 情報交換
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