2022年5月21日土曜日

氷川山地蔵院金蔵寺|千住遊女の投げ込み寺

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 北千住といえば、酒場の街。東京屈指のターミナル駅の北千住駅前は、都会と下町酒場がごちゃ混ぜ地帯。そんな北千住駅西口の飲み屋横丁の裏手に、大きなお寺、金蔵寺があります。
 北千住といえば酒場の街と書きましたが、江戸時代に遡れば、日光街道の宿場町。江戸時代の宿場町は、かなりの繁華街であり、そして、人の集まる繁華街には、歓楽街もできるもの。北千住にも、春を売る飯盛女のいる旅籠屋が36軒あったといいます。
 そのような色街的なものは、大正時代に、この辺りからは排除され、柳新町に移されたため、この辺りには、もう全く色街的な名残は一切残っていません。そのようなものは、都会化の波ではなく、まず、下町化の波に飲まれて、完全に下町になったのです。そして、現在は都会化の波に飲まれようとしていますが。
 それはいいとして、色街的な名残のない、北千住駅周辺、千住宿周辺ですが、実は、この駅近のお寺、金蔵寺に、その名残があるのです。


 金蔵寺を入ると、すぐ左に供養塔と無縁塔があります。
 この供養塔が、飯盛旅籠で働いた遊女を供養する塔なのです。そのような仕事は、今でもそうでしょうが、当時は更に劣悪な環境で、感染症と隣り合わせという、大変な仕事だったのだと思います。しかし、その遊女たちは亡くなったら、ほとんどが無縁仏として扱われていたようです。いわゆる投げ込み寺ということなんでしょう。
 その隣の無縁塔は、天保8年(1837)の大飢饉の餓死者の供養塔。「飢えて下民に食なし・・・この地に死せる者八百二十八人・・・三百七十人を金蔵寺に葬り・・・」と刻まれています。下民に食なしってのが、刺さりますね。大飢饉の最中で、食がある人とない人がいる、そうなるんでしょうが。この供養塔を建てたのが、千住二丁目の名主、永野長右衛門という人らしいですが、その人には、当然、食のある人。なんて考えると、何だかなぁって思っちゃいますが。


 金蔵寺の創建は、室町時代の建武2年(1335)。本尊は、早期円当時は地蔵菩薩であったのが、閻魔大王に変わり、現在は閻魔大王。だから地蔵院っていうんですかね。
 千住には、金蔵寺の近くに勝専寺というお寺がありますが、ここも閻魔大王を祀っていて、何だか千住には閻魔大王が多い。というか、江戸の宿場町には必ずと言っていいほど、閻魔大王を祀るお寺があるんですよ。品川の長徳寺、新宿の太宗寺、板橋の文殊院など。市域の内側をシャバ、外を他界とみたてる江戸の世界観、宇宙観から四宿に閻魔大王が必ず祀ってあるとかなんとか。
 そもそも、お地蔵さんと閻魔大王は仏教界では同一であるとする考えがあるようで、金蔵寺は、地蔵尊が本尊だったから、それと、江戸の宇宙観が交わり、閻魔大王が本尊になったのでしょうか。
 閻魔大王は、こんにゃくが好物で、こんにゃくがよく供えられるそうなんですが、こんにゃくは引き抜かれる舌の代わりだそう。なので遊女は、閻魔堂にこんにゃくを沢山供えたとか。いろんな客に嘘をつくから・・・


 境内には、そのほか、古い石碑がたくさんあります。





蔵寺の地図、アクセス

東京都足立区千住2−63

     


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