2022年5月21日土曜日

見番横丁(北千住)|千住の裏歴史を物語る路地

 ホーム東京の通り>見番横丁(北千住)


 北千住駅前の目貫通り、きたろーど1010から北千住宿場通り商店街に入るとすぐ、日光街道千住宿の本陣があった場所があります。1階に100円ショップが入っていて、何の風情もありませんが、その脇に細い路地があります。この路地も、ビルの隙間で何の風情もありませんが、この通りに、明治から昭和18年まで、千住芸妓組合の事務所、見番が置かれていたのです。
 江戸の宿場町は、当時、人の集まる繁華街であり、歓楽街であり、飯盛女や食売女など、いわゆる娼婦を置く旅籠がたくさんありました。日光街道の千住宿も例に漏れず、50軒の飯盛旅籠があり、飯盛女(娼婦)がいたのです。今では全く想像つきませんが、この辺りは、風俗街でもあったのです。


 どこからどう見ている構図なのか分かりませんが、葛飾北斎の富嶽三十六景、従千住花街眺望ノ不二。日光街道から、奥に千住宿の花街(飯盛旅籠街)が見え、その向こうに富士山。街道から街が離れて見え、しかもその向こうに富士山が見える方角なので、日光街道が千住宿を出て西に曲がった辺りからの眺望なのでしょうか。そうすると、この浮世絵に見える建物のあたりは単に千住宿あたりだと思われるので、全てが花街とは言えないのか、それとも花街が、少し、宿場町からは西に張り出していたのか。いや、それとも、見番は、明治になってからできたものなので、江戸時代の花街、飯盛旅籠は、少し違う場所にあったのか。いや、そもそも浮世絵は、デフォルメの嵐なので、大きくデフォルメされただけの構図なのか。
 どうでもいいのですが、実際に飯盛旅籠がどこら辺にあったのか知りたい。
 飯盛旅籠は、明治に入り、禁止され、千住芸妓組合が発足したということは、千住は、娼婦の街の花街から、芸者の街の花街に変わったということなのでしょうか。料亭があり、芸者さんが歩く街だったなんて、これも今では全く想像がつかないのですが。
 飯盛旅籠が禁止というか、売春宿が禁止されたのでしょうが、そのあとも、古くから残る遊郭というか売春宿がそのまま残っていたようで、それらは、大正15年(1926)に、西に大きく離れた柳新地に、移転させられ、それ以来、千住のもと宿場町は浄化されたのです。


 そして、この路地に千住芸妓組合、いわゆる見番が置かれたのです。


 左の白いビルが、見番のあった場所です。全く面影も風情もありません。


 看板建築が残っているので、この細い路地に商店が並んでいた時代があったのでしょう。


 足立区郷土博物館のデータベースに昭和37年(1962)の見番横丁の写真がありました。


 八百屋や、トリスバーがあります。トリスバーってのがいいですね。ちょうど、この頃、トリスバーが発祥して、全国に広まった時代です。人もたくさん歩いていますね。こんな路地だったんですね。

番横丁(北千住)の地図、アクセス

東京都足立区千住2丁目、3丁目

     


番横丁(北千住) 情報交換

見番横丁(北千住)について、訪れた感想、足りない情報や、新しい情報などありましたら、コメントをお願いします。情報交換の場にしてもらえればと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿

こちらからコメント、情報をお願いします。