2022年9月18日日曜日

福聚山 善應寺 普門院|亀戸の樹木に覆われたお寺

 ホーム寺院福聚山 善應寺 普門院


 亀戸駅から亀戸天神通りを西に歩き、亀戸天神通りの信号を北の路地に入って歩くと、大量の樹木が生い茂っているところがあります。通りからざっと見ただけでもかなり広い敷地で、その広い敷地に樹木が生い茂っています。
 ここは元和2年(1616)にこの地に移ってきた普門院。


 嘉永5年(1852)版の深川絵図に現在と同じ場所に普門院が記載されています。今もそうですが、亀戸天神社に比肩する広い境内を有しています。
 普門院の創建は、これより遡ること400年前の大永2年(1522)。当初の創建場所は、三股(隅田川、荒川、綾瀬川がおち合うあたり、現・足立区千住)城中にであったとされています。江戸名所図会に大永2年、千葉白胤の三股の城中に梵刹を開いたとそう書いているのですが、千葉白胤は明応2年(1494)に亡くなっているので、何か定かではないようです。
 そして隅田川、荒川、綾瀬川がおち合うあたり、千住あたりにあったとされる三股の城とは、たぶん石浜城という千葉氏の城なのかなと思われます。この石浜城、千住にあったとも浅草にあったともいわれおり、創建の地もはっきりとは分からないようです。
 その三股の城から、現在の亀戸に移ってくる際、梵鐘を川に落としてしまったんだそうで、その辺りが今の鐘ヶ淵なんだそうです。


 山門前左手に「伊藤左千夫の墓」という石碑が立っています。伊藤左千夫は歌人で「野菊の墓」の作者で有名。


 本当に緑の多く気持ちのいい境内。


 残念だったのは本堂の修復中だったのか、足場が組まれている有様。
 この本堂の景観が戻れば、周りを見回しても緑しか見えない、ビルの見えない、まるで山寺にいるかのような境内なのです。


戸名所図会と普門院


 江戸名所図会に描かれている普門院は、現在のような樹木に覆われた境内ではなく、こざっぱりとした境内であったことが窺われます。どうしたら、これが今のようになってしまうのか不思議なくらいですが。
 広々とした境内の真ん中には、「御腰掛松」が描かれています。三代将軍・徳川家光が腰掛けたそうです。将軍が立ち寄るくらいですから、それなりのお寺だったのでしょう。その御腰掛松は、明治43年の洪水で枯れてしまったんだそう。

門院周辺

 今でこそ、少し荒廃している感すらある普門院ですが江戸名所図会に載っていおり、その境内の広さから考えても、古くからの名刹だったのでしょう。普門院の門前通りと言えるような通りには、商店建築、看板建築が並んでいます。ただ、どこかしら寂れた感じではありますが。商店もやってるんだか閉業してしまっているんだか。
 普門院と関係があるかは分かりませんが、以前は、これらの建物で商店が営業する賑やかな通りだったのかも。


 古い森永乳業のマークが掲げてある建物。町の牛乳屋さんだったのでしょうか。昔は牛乳は瓶で各家に配達されてましたが、そんな牛乳屋さんだったのかも。





 夕方には、このもつ焼き小池屋が開くようです。

地裏の喜楽という中華屋


 路地裏に入ると、なんとも渋い外観の中華屋を発見。ラーメンの幟にお食事処の暖簾。コンセプトフリーの昭和の町中華。中華と言っても、和食も洋食もなんでもありの町中華。
 なんと創業は昭和32年(1957)!次の年、売春防止法が施行されたので、喜楽ができた頃は、すぐ近くの亀戸天神社には、まだ赤線街、カフェー街があったので、この辺りも随分賑やかだったのではないでしょうか。歓楽街そばの中華屋だったということです。


 そんな喜楽の亭主は、こんなに腰が曲がっていました。カウンターからは、この体勢でテキパキ調理する亭主が見え、もう素晴らしいとしか言いようがありません。



門院の地図、アクセス

東京都江東区亀戸3−43−3

     


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